見出し画像

人生の最終ゴールを蝉の姿に重ねてみた

朝、ベランダの手すりに大きなアブラゼミがとまっていた。
片方の羽根が欠けて、どことなく生気が薄い感じ。
もう少しで命が終わりを迎えるのかもしれない。

蝉は、何年も地中で過ごす。そして、羽化した後は、ただ次の命をつなぐために生きる。そして、死ぬ。

蝉は、死ぬために、陽の光の下に出て来る。
空を飛び、つがいを見つけ、新しい命を生み、そして果てる。

地中にいる蝉は幸せなのだろうか、と、ふと思う。

楽しいことはあるのだろうか?
外に出たいと思うのだろうか?
陽の光や風や木々に憧れるのだろうか?

人生で描く最終ゴールや夢は、羽化した蝉の最後の姿と似ている。
それを想い描くこと、そこに向かうことが、(蝉の幼虫ならば地中で生きる)長い人生で繰り返される日々の糧となる。

それは、叶えられるためのものと言うよりも、今をより輝かしく生きるためにあるものだ。

そして、その夢が本当に叶い、最終ゴールを達成するというのは、つまり、今生を全うして死ぬ、ということに他ならない。


わたしの一番大きくて一番遠くにある夢は、心から満足して生を終えること、だ。
死を迎えるときがすなわち、夢が成就する瞬間となる。

わたしたちの人生と蝉の一生は似ているのかもしれない。
だから蝉を見ていると切ないのかな。

古くから日本人は、蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と呼び、それを現世の身(うつしみ)の儚さに重ねて見ていた。
そんな感性が脈々と21世紀を生きる私たちの心の奥底に受け継がれているのかもしれない。


もし記事がお役に立ったなら、サポートいただけるとありがたいです。 頂いたお気持ちは、活動継続のために活用させていただきます。