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はじめまして。

いつもありがとうございます。

キムチ専門店 株式会社第一物産 三代目の姜 恵蘭(かんへらん)です。

私たちのお店は、東京の上野駅近くにあるキムチ横丁と呼ばれる東上野コリアンタウンの一角です。

新大久保のコリアンタウンに比べ、本当に小さい街ですが
専門店として、それぞれの店が故郷韓国の味を代々に渡って継いでいる店が多く、中には創業70年近くのお店もあるくらいです。

当社は1960年創業の61年目を迎えました。
「故郷の味を、同胞に食べさせたい」という祖父母の想いから始まった第一物産。
祖父母、オモニ(母)と継がれ、「世界の食卓へキムチを」とスローガンを掲げ

今は私がそのバトンを受け取り
「すべてのお客様の”美味しい”のために」を理念に
「お客様の食卓を笑顔に、元気に、健康にします!」をスローガンに
食を通しての社会貢献、キムチをもっと多くの人に知ってもらう活動をしています。

さて、そんな私の簡単な自己紹介を!

高校2年で中退し、アメリカの高校へ留学へ。
大学まで行く予定でしたが、事情により帰国。
ホテルビジネスを学び、ホテルロッテ東京事務所で勤務ののち
イギリスへ再び留学し、そのまま現地で就職。
イギリスでは、カフェやサンドイッチショップ、ホテルのフロントなど
いろいろなことを経験できました。

と、ここまで人に言うと、すごいねぇ、羨ましい、と言われますが

「ただ、ただ、親から離れたかった」のです。苦笑

うちは、親絶対だったので、それが嫌だったんですよね。
家がキムチ屋だということも誇りに思ってなかったし、とにかく嫌でした。

それらが私の「離れたい」という気持ちを押したかもしれません。
自分の時間はなく、もちろん友達を遊ぶ時間よりも弟たちの面倒や
店の手伝いが当たり前だったのです。
今でも、よく頑張ったなと思います。自分で言うのもなんですが(笑)

さてさて、そんな私もなんだかんだあれだけ嫌だった家業を継ぐわけですが。

ここまで来るのに、いろいろなことがありました。

始まりは、一本の電話。

「大社長(私の母)が倒れました。日本に戻ってきて下さい」

その時、私はフランスにいたのですが
あの頃は携帯を海外でそのまま使うことができず、レンタルしていた時代。
オモニ(母)が、しつこくレンタルしなさい、レンタルしなさい、と
フランスに行く前に何度も言うので、仕方なくレンタルしたんです。

今考えてみれば、レンタルしてなかったら倒れたことも知らずに
オモニに会えなかったかもしれません。

日本に急いで帰国しましたが、すでに脳死でした。
脳幹出血でした。手術も何もできない、ただ娘が帰ってくるまでは
人工呼吸でなんとか、、、という状態。

延命処置を外す決断って、本当に苦しいですよね。
よくわかります。

『なんで、うちのオモニが?』としか思えず
助からないと言う主治医を責めてしまいました。
後に、お詫びを伝えに行きました、、、、、、
お医者さんだって、精一杯やってくれてるのに、責めちゃダメですよね。

実は倒れる前の晩、オモニからそのレンタルフォンに連絡があったのです。

小さい頃から、私を褒めることや甘えることはなかったオモニが
(もちろん、思ってくれていることは十分に分かっていましたよ♡)

最後に言ったのが「I LOVE YOU」でした。

ときどき、ふざけて英語で言うこともあったのですが
あんなに真剣に言われたのは初めてで、照れ臭くて急いで電話切ったのを
今でも後悔しています。

病室に着いて、目を開けないオモニ、返事をしないオモニに
何が起きているか分からず、過呼吸になってしまったのは覚えています。

そして、言われたのが
『明日朝、会社にきて手続きが必要です。」とのこと。
つまり、代表の交代。
ここから、いろいろなことが起こり、いろいろな経験をするのですが
社長業なんて、1ミリも分からない、携わったことのない娘が社長になるのですから

本当に大変なことが多かったです。

けれど、Never Give Upでここまでやってこれました。

とにかく、右も左も分からず、言われたことや起きたことを
ただただ処理しなくちゃ、解決しなくちゃ、と奮闘していました。

長くなりそうなので、今日はここまで!!

このnoteでは、私のことだけでなく、
第一物産の自慢の社員たちのことや、
失敗談や乗り越えた壁や、みんなの取り組みや成果、成長など
ときどき、韓国料理などを書いていこうと思います。


心から未来に希望を持てることができたのも
社員のみんなや、支えてくださる皆様が居たから。
感謝の気持ちを込めて、綴っていきます。

みなさまどうぞよろしくお願いいたします!


○第一物産上野本店 1970後半頃の写真○