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【三国志・考】董卓は暴虐の先に何を見ていたのか

 権力者はふたつのタイプがある。
 尊敬され人心を掴む権力者と、恐れられ人心を支配する権力者だ。

 昔、放送していた勧善懲悪のヒーローものでは世界征服を目論む悪の組織が登場するのお約束だが、彼らは何のために世界を征服し、その後はどのように統治していくつもりなのだろうか。暴政を敷く権力者にも同様のことを感じる。

 国民に重税を課しては、やがて労働力が減り財源が減る。自身の主義と合わない者を消していけば自身の誤った判断を諌める者がいなくなり、優秀な人間より狡猾な人間が重職につき私腹を肥やすことのみを考えるような政治腐敗を招くだろう。暴虐な独裁者が治めて繁栄した国家を筆者はひとつも知らない。そして後漢時代末期は董卓によって、まさにそれに近い状況となった。

董卓の暴虐

 すでに霊帝の跡継ぎとなっていた皇帝・劉弁(少帝)を廃し、自身と同姓の董太后が養育した劉協(献帝)を即位させた董卓。この計画を集めた朝臣たちの前で高々と宣言した。このとき劉弁は14歳、劉協は8歳である。とても政治がわかるような年齢ではない。政治を董卓が執りしきるようになったこのときが事実上の漢王朝崩壊だと筆者は考えている。

 相国という宰相の地位に就いた董卓はわずかな恨みでも必ず報復し、自分と折り合いが悪いかつての上官や重職にある人間を理不尽に免官、処刑した。着せる罪は難癖といって差し支えなく、司空という地位にあった劉弘という人物などは「長期間、雨が降らない」という理由で罷免されている。

 実に意味がわからない。そして、その後に雨が降ったのかは不明だ。

 この恐怖支配によって朝臣たちは自分がおとがめを受けないように他人の行動を董卓に密告し、失態を押し付け合い、事実確認もせずに無実の人間が処刑されることもあったという。正史に「誰が誰に密告された」など詳細は記述がないため、このようなことは日常茶飯事だったのだろう。

 正史に記述されている董卓の具体的な暴虐ぶりは、ここに書くことが憚られるほどの蛮行ばかりだが、読者の方に可能なかぎり不快感を与えない範囲で一例をあげると、ある地方に赴いた際は男性を皆殺しとして財と女性を都へ持ち帰り、「賊を討伐して戦利品を手に入れた」と宣うといった具合である。明らかに略奪であり、賊そのものだ。

 しかし、皇帝の威光を傘にこのようなことを続けていれば漢王朝の忠臣たちが黙っているはずがない。190年、業を煮やした橋瑁なる人物が偽造した勅令を各地に発した。これの呼応した諸侯は董卓討伐のついに董卓政権下で身の危険を感じ、都を離れていた袁紹を盟主とした反董卓連合軍が結成され、都・洛陽へ出撃する。

 この戦いにはのちに三つの国家が鼎立する三国時代の魏の太祖・曹操と呉の始祖・孫堅が参加していた。まともに董卓軍と戦ったのはその二人の軍だけだったというのが定説だ。なお蜀を建国した劉備が参加したという記述は正史には見られない。

 董卓はこの戦いで大きな損害を受けた。追い詰められた人間の悪あがきは恐ろしいもので、遷都という暴挙に出る。
 それはただ都の地を移すという平和的なものでなく董卓は都・洛陽に火を放って焦土としたのち、歴代皇帝や王の墓を掘り返して埋められた財宝までを持ち出して旧都・長安へと逃亡したのだ。もちろん皇帝を連れてである。

董卓の政治

 董卓が行なった恐怖支配による朝廷の人事はこのようなものであった。彼のイメージは正史でも三国志演義でも同様だ。
 では政治手腕はどうだったのかが気になるところである。彼は何か天下のためとなる法令を発したりしたのだろうか?

 案の定、善政を敷くようなことはなかった。むしろ悪政によって朝廷のみならず庶民や経済まで混乱に陥れた。董卓は遷都の際に漢王朝で使用されてきた五銖銭と呼ばれる銅銭を廃止し、その半分ほどの重さの小銭を作らせた。これは磨かれてもおらず装飾もない貨幣とは思えない代物だったこともあり貨幣価値は大暴落したという。一石(約150kg)の穀物が数十万銭というインフレが起きた。それ以前は一石が何銭の価値だったか不明なのでよくわからないが少なくとも善政と呼べるものではないことは確かだ。
 遷都強行は暴政というか変事に近いが、このほかに悪政があったかの記述は見られない。何かしら董卓が変えてしまった制度などもあったと思うが人事と軍事以外は部下に任せていた可能性も高そうだ。 

 董卓は軍事力と行動力は持っていたが、それによって国家を繁栄させることはできなかった。 そうするつもりすら微塵も感じられない。

董卓は何を目指したのか?

 ここまでの流れで董卓の人物像を考察すると欲という欲に支配された魔王のような印象だ。
 そして彼は臆病な部分があるのも窺える。

 しかし彼は霊帝死後の朝廷の混乱に乗じて、軍事権のみならず政権も掌握した男である。ただの極悪人では済ませられない気がしてならない。
 政権掌握後にどうとでもなれた。自身が擁立した劉協を上辺だけでも敬い、後世に英雄として讃えられる存在になることも十分、可能だったはずだ。

 しかし破滅的に良心が欠落していた。当時の漢王朝に優秀な人間がいなかったわけではないだろうが、董卓に諫言できるほどの忠臣が命を落とすことを見てきたのだから無駄死にを選ぶことはなかったのだろう。

 これは筆者の独自解釈だが権力を握ったのちの董卓は常に退屈と恐怖に苦悩していたのではないだろうか。

 強大な軍を動かす力を持ち、天下に並ぶ者がいない武勇を持つ呂布も自分の臣下におり、何より自分が担ぎ上げた幼い皇帝の威光を用いれば白いものも黒くなる。

 そのようなすべてが思い通りとなる状態が続けば、やがてすべてに飽きる。かといって、人の下につくような状態に戻ることはできない。これを維持できなくなることへの怯えはどんどん大きくなるはずだ。その怯えを解消するために自分の敵となり得る人間を消し、快楽に耽ることで束の間の心の休息を得る、というループに入ってしまうことだろう。

 冒頭で挙げた悪の組織と同様に董卓は政権を掌握したあとのことなど考えていなかったとしか思えない。彼の目標はここまでだったのだ。あとは自分の周囲にイエスマンのみを置いて、気分よく布団の上で生涯を終えられればそれでよかったのかもしれない。

 しかし、そうはいかなかった。彼の暴虐がまかり通る時代は2年ほどで幕引きとなる。因果応報と言おうか自業自得と言おうか、董卓には正義の鉄槌がくだることとなる。

 董卓は尊敬される権力者ではなく、恐れられるだけの権力者だったことは非常に惜しいと思ってしまうのは筆者だけだろうか。

董卓の末路についてはまた次回に。
ばーい、せんきゅ。

【参考文献】
後漢書 本紀[二](早稲田文庫)
正史 三国志 魏書1 董卓伝(筑摩書房)

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