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波瀾万Joyな人生でござんす。


はじめに


こんにちは〜
クリスマスイブイブの推薦生アドベントカレンダーを務める、東大推薦7期経済学部のMaverickです🌱
普段は"あの"トイレの東大生として色々活動させていただいてます。

さて、"東大生","推薦生"と聞くとさぞかしスマートで知的な人生を歩んできたのだろうと思うかも知れません。
ー先に言っておきます。そんなことは全くない!!!!
本当にやらかしばかりの人生を送って、はや19年が経とうとしています。

このアドベントカレンダーは特にテーマの指定がないそうで、おそらく他の推薦生がきっとアカデミックで素敵な文章を綴ってくれているだろうと信じ、私は私らしく自分の波瀾万丈な人生を再度見つめてみようと思います。

東京に生まれ、東京で育ちました。
2003年、干支がひつじの年に生まれたから名前は"らむ"というジョークを本気で信じていた幼少期。生後7ヶ月で歩き回って医者には化け物と呼ばれました。

そんな化け物はすくすくと育って小学校に入りました。食べるのが大好きすぎて給食委員に入り、食堂でクラスの皆んなとご飯を食べた後、他のクラスや職員室へ給食の余りを貰いに行き、その後用務員室で焼き芋を一緒に食べたりしました。

さらに時は流れ、中学に入学しました。中高一貫だったこともあり、本当にパラダイスのような6年間でした🏝
その中でも印象的な1年間、アメリカ留学での日々にフォーカスを当ててみようと思います。

私は高校1年次に1年間アメリカへ留学しました。
本来であれば経済的に断念していたはずの留学でしたが、トビタテ!留学JAPANの日本代表高校生として*無償での留学となりました。
*研究を目的としており、毎月奨学金が給付されていたため。

さあドキドキワクワクの大冒険in🇺🇸
ですが、ここから本当の意味での波瀾万丈LIFEがスタートしました。

お楽しみは、ここからだ。▼▼▼

端的にいうと、私はホームステイ先を2回、学校を1回変えました。変えざるを得なかったと言った方が正しいですね。

1つ目のホームステイ先家族は過去に何回も留学生を受け入れているいわばベテランさん。そう聞いていたのでつい安心していました。しかし蓋を開けてみれば皆ヨーロッパからの留学生。アジア人は私が初めてでした。
到着して1週間後、"家の中で一言も発するな。"の一言から始まり、ホスト要件の1日3食の提供や寝る場所の提供すらしてもらえなくなりました。しかし唯一の楽しみは学校でした。ホストからBlackとは話すな、と激昂され続けたけれども、仲の良かったBlackの友達とゲラゲラ笑いあったり、マリカーする時間が本当に楽しかった。申し訳ない気持ちも多かったけど、彼らが毎日シフトを回して私のために3食をタッパーに入れて持ってきてくれるのが嬉しかった。だから、放課後のスクールバスで現実に引き戻されるのが本当に辛い時間でした。

ホストの親戚らと旅行で湖に行った日。雷が鳴り響いているのに、私以外全員が酔っ払い、だだっ広い湖上に浮かぶボート。5cm隣への落雷。死を覚悟した瞬間でした。

家のお手洗いに入った瞬間に、ホストファミリーが消えて数日間帰ってこなかったこと。
買い物に連れて行ってやる、とWalmartに連れて行ってもらったものの置き去りにされて1日過ごしたこと。
これでも食べとけ、とドッグフードを出されたこと。
どれもが信じられない体験の数々でした。

ある日の朝、起きたら目の前にライフルが向けられていました。ライフルの赤い的が眉間に当たっていました。理解ができませんでした。でもその瞬間、私の中の何かが呼び起こされました。

翌日には留学団体に電話し、現状を伝えましたが相手にしてもらえなかったので、現地の弁護士団体にアポを取りました。在住権もお金も何も無いただの16歳に対して、英語面や抗議文の作成などを無償で行ってくれた方々には感謝しかありません。訴訟手前でホストマザーが"もうこんなガキ手に負えない"と言って私を手放した瞬間は本当に涙が出るほど嬉しかったです。もちろんそれは、ここまで私を沢山の面でサポートしてくれた友達、学校の先生、弁護士団体らとの別れも意味していました。でも、最後まで彼らは私を支えてくれました。今でも連絡を取り合う仲です。

そんなこんなで次のホストファミリーが決まるまで私は留学団体の人と住むことになりました。
んんん、その頃の思い出は特に無い。
けど強いてひとつ覚えているのは、留学して3ヶ月(あの状況でよく3ヶ月耐えたと思う)なのにここまで英語喋れない留学生は見たことない、と言われたこと。
まあ、そりゃそうですわ。家で英語を話すこと禁じられてたんだもん笑笑

そんなこんなでハロウィンが終わり、11月に入ると新しいホストファミリー決定の朗報。裕福な家庭では全く無いけれど日本のカルチャーが大好きで興味を持ってくれた、とのこと。不安は大きかったけれど、そのお宅に迎えられました。

そこが最高の家族だった。

確かに経済的には全く余裕がなくて、1人部屋も机もなかった。けれど皆んなで知恵を出し合いながら節約しあって、自炊して、その毎日が当時の私の胸に沁みました。
逆に家族以外の環境は結構ヤバかった…
高校では生徒も教師もタバコ・麻薬の取引が横行してて、"自販機で買った飲み物取ろうとしたら、あら大麻がある。"なんてこともザラでした😇
地域も小さなコミュニティだから珍しい日本人の存在なんてすぐに広まり、誘拐未遂にもあいました。
≪人生初の警察の事情聴取^_^≫

2023.09.01 追記(誘拐について)
学校からのスクールバス降りて家に向かう途中、路上で私の名前を呼ばれ振り返ると赤い車。誰ー?と聞くと「高校の友達の⚪︎⚪︎と××だよ」と言われました。んー誰だっけな、、、と考えてみたのですがよくよく考えたら麻薬だらけの学校で友達0人孤独生活だった(爆笑)ので、その声かけのヤバさに気づきました。家にも誰もいないこともバレたらまずいと考え、家に向かって「おかあさーん、今行くね」と叫び、車に対して「ごめん、お母さんが呼んでるから〜」と言って去りました。すぐに仕事中のホストマザーに連絡すると飛んで帰ってきて、防犯カメラを確認すると2人殺して指名手配されていた連続誘拐犯だったようです。
さすがに背筋が凍りました。

なんかここまで色んなことがあったのにそれを淡々とnoteに綴ってる自分が一周回って怖いまであるなあ…
まだまだ他にも激ヤバエピソードはあるのですが、これくらいにしておきましょう。

さて、ここまで来て私が思うことは

なんやかんやありがとう

です。
この気持ちに辿り着くまでには相当の時間がかかりました。1つ目のホストファミリーに出会ってから現在に至るまで、いまだに多くのトラウマを抱えながら生きています。雷恐怖症、暗所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症 etc.
でも、やばい死ぬかも!っていうリアルな経験を何度もしてしまったので、なんかその後どんなに辛いことがあってもかすり傷くらいに思えるメンタルで今のところやり過ごせています。
多分、今の私は死ぬこと以外かすり傷、無敵ゾーンなんだと思います。
いつこのゾーンから脱しちゃうかは分からないけれど、とにかくこの状態である限りは何事にも挑戦しようと決めました。だからリスクがあっても、何でもやってみる。
もはや私はギャンブラーに近いんだと思います。

つまり、生後7ヶ月で化け物と呼ばれた私は16年後にギャンブラーという化け物に成長したわけです。

これで私の自己紹介を終わろうと思います。
長文最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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