【五島紀行12】四日目 20160130 奇跡の出会いから再び中通島北部へ

江袋教会→元津和崎小学校→大浦教会

ホテルマルゲリータでコーヒーを飲みながらインターネットでAさんについて検索すると、顔写真も実名入りの寄稿記事も幾つも出てきた。顔写真、確かに先ほどの人物だった。これなら大丈夫かなと思いながらコーヒーをすする。するとAさんが入ってきた。椿油の工房が閉まっていたのでここかと思って、とロビーで早速打ち合わせが始まる。Aさんは持参した上五島・下五島の地図を広げ、「さぁ、どこに行きたいですか」とニッと笑った。Aさんの知識は物凄かった。私もそれなりに上五島について調べてから来たつもりだったが、半端じゃない知識量だった。カクレキリシタンについて質問すると、山神神社の事も現在の「大将」の事もご存知で、上五島のキリシタンの歴史を滔々と語り始めた。そしてお手製の資料が次々と出てくる。どれも丁寧に作り込まれたものだった。その場で「差し上げます」とひょいと私にくれてしまった。Aさんが凄いのはそれだけではなかった。昨日訪れた頭ヶ島教会の話になった時、私が何気なく「教会の側のお家の表札のお名前を見ましたけど、珍しいお名前でした」と口にした次の瞬間に「○○○○さんですね」とフルネームで即答したのだった。そして何故そのお宅がそのお名前なのかの由来まで話してくれた。これにはさすがにびっくりした。いくら世界遺産候補地とはいえ個人宅の表札、それもフルネームまで覚えているなんて。下手したら交友関係もあるのかもしれない。あぁ、この人なら安心できる、と直感的に思った。

打ち合わせだけで話が盛り上がってしまい、悠に40分は話し込んでいた。途中ではたと気が付いたAさん、「時間が勿体無いので早速行きましょう」と立ち上がる。打ち合わせの結果、初日に外観を見て終わっていた江袋教会にもう一度行ってみましょうという事になった。今日なら中に入れるだろうし、あそこは墓地がお勧めなんです、という。結局私の車に乗り合わせで行く事になった。振興公社の職員さんのお勧めを信じて、とこの時点ではそれこそ神に祈る気持ちが半分だった。

江袋教会までの道すがら、上五島のキリスト教の歴史やカクレキリシタンについて等更に詳しく色々とお話を伺う。なぜ上五島のキリスト教集落は辺境僻地が多いのか。これは旅の初日からずっと感じていた疑問点でもあった。キリシタンが長崎本土から渡って来た当時、五島の比較的便がいいところには既に仏教徒・神道信者の集落ができていて、キリスト教徒が入る事を許さなかったらしい。そのためキリスト教徒は辺境僻地に住むしかなく、今でもその名残で各地にキリスト教徒の集落があるのだという。Aさんの話はどれも大変興味深かった。そして更に、道の途中で「こんなところにも家があるんですね」と特に説明を求めるわけでもなく口にした私の言葉にすぐ「ここのお家はおばあちゃんが独りで暮らしています」とか「ここにはこれこれこういう方が住んでいらっしゃいます」とか反応を返してくる。聞けば新上五島町のガイドさんの中で相当人気が高いのだという(あくまで自称だが多分本当だろう)。定説とされているものが必ずしも正しいとは限らないという信条のもと、数々の書物を読んだり現地の高齢の人々から丁寧に話を聞いたりして「本当の上五島の話」ができるガイドを目指しているのだという。年号から人物名から土地名から何から何まで訊いて答えてもらえない事は何一つなかった。昨日の時点では野崎島に行けない事について考えていたけど、この人に出会えた今日という日は一体何なんだろう?と少しずつ思い始める。

江袋教会に再び着いた。墓地は教会のすぐ側にあった。狭い階段を二人で一列になって登ると、階段に添うように這わされていた水道管が破裂して水が飛び出している。Aさん曰く、数日前の大雪の影響で島のあちこちでこうなってしまって復旧が追いついていないとの事だった。水を避けて階段の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。人よけのためではなくイノシシよけのための扉なのだそうだ。江袋教会は確かに島の北部の山の方に位置している。実際、イノシシが飛び出してきてもおかしくないところだった。

墓地は入江にあって、対岸に低く連なる山を望む。間にまあるく海があった。四日目にして少しだけ天気が回復して、ようやく少しだけ青い海を見る事ができた。向かいの山々を眺めながらAさんが解説してくれた。その昔、禁教の頃、キリシタンは亡くなるとお墓を建ててもらう事はできず、その辺の海や山に捨てられてしまっていたらしい。そして禁教が解かれた後にやっと子孫が海や山から骨を拾い、この墓地に埋葬する事が叶ったのだという。この美しい海にも山にもそんな悲しい歴史が秘められていたのか。入り口の石碑にも同様の文言が書かれていた。何も知らないで訪れていたらただ美しいだけで終わってしまった旅だった。海と山、墓地を順番に見つめながら何とも言い難い気持ちに襲われた。ここは、私がこれまで経験した事もない、抑圧と弾圧の歴史が想像もできないほどたくさん詰まった土地なのだ。

Aさんの勧めで、島の北部の北部、もしかしたら現地の人と会えるかも、という津和崎という集落に向かう。残念ながらその方はお留守だったが、その足で近くの廃校になった小学校に向かった。タイミング良く晴れてきたので海を見ながらお昼を食べようという事に。二人ともお昼を持参していたので丁度良かった。私の昼食は本当だったら野崎島で食べようと思っていたお弁当。Aさんは自作のパエリアだった。Aさんは準備が良く、スプーンを二つ持ってきてくれていた。豪勢なパエリアを取り分けてくれる。パエリアはとても美味しかった。おまけに五島名産のかんころ餅を小さく切ったものも分けてくれた。かんころ餅は原料がさつまいも。この島らしい、とても素朴な味がした。海の向こうにはうっすらと陸が見えた。「あれが野崎島ですよ」とAさん。青い空と海に挟まれた野崎島。こんなに近いんだなぁ、と改めてその距離を実感した。

元津和崎小学校では、体育館で来週のイベントの準備がされていた。Aさんが地元の人と親しそうに挨拶を交わす。あぁ、やっぱり本物なんだ、とここでもまた一つ安心する。イベントは地域に根差したとても素朴なもののようで、体育館の壁には色々な写真が展示されていた。その中の何枚かはAさんが撮ったものだそうだ。偶然その場に居合わせた地元の女性と一緒に写真を撮る。全くの他所者の私に、嬉しそうに「また来て下さいね」と笑顔で声をかけて下さった。暖かい笑顔だった。

午後になって、件の、今はもう使われていない小串の教会に向かう。ここは5年前に家族・親戚で五島を訪れた時に泊まった宿の目の前だった。やはり海の目の前にある。当時女将さんは何もおっしゃっていなかった。もしかしたらご存知なかったのかもしれない。ぱっと見ではそうとは気付かない廃屋に、よく見ると十字架が冠されている。それで辛うじて教会だと分かる。これは確かに知らなければ絶対に来られない場所だった。今朝、青砂ヶ浦教会に立ち寄らなかったら、Aさんに出会っていなかったら、絶対に来られなかった。ここに来るまでの間に「十字架の道行き」という話を教えてもらっていた。カトリックの教会には、両壁に7つ7つ、計14の聖画像が掲げてあるのだという。イエス・キリストの捕縛から受難・埋葬までの14の場面が描かれたもの。確かにこれまで回ってきた各教会の両壁にもそれらしき絵画が飾られていた。今や廃屋のここ大浦教会も、よく見ると両壁に14箇所釘が打たれ、絵らしきものが飾れるようになっている。ここにも「十字架の道行き」があった証拠だった。振興公社の人が「ジャングルのような場所」と形容するだけの事はあって、ツタと木々に覆い尽くされもういつ潰れてしまってもおかしくないような建物だった。仮に数年後訪れる事ができたとしても、その頃にはもしかしたらもう存在していないかもしれない。幻の30番目の教会。ここが教会としてその役目を果たしていた期間は決して長くはなかったようだが、ここを必要として教会を作ろうとした信者達が確かにいたのだ。ここができた時の彼らの喜びはいかばかりだったか。そして教会でなくなった時はどんな様子だったのだろう。想像しても、私には分からなかった。立ち入る事のできない世界だった。

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