善好良 - 発展 美からの視点

 美しいものが好きなものなのだろうか、それとも、好きだから美しいと思うのか。私は美と好きを分けることは無意味だと思う。それは同じだからだ。美しいものは好きなものだし、好きなものは美しい。

 善好良の好きを個人的なもの、良をただの予想、そう定義した。最後の善はどうだろうか?善い生き方は良い生き方でもあるし好きな生き方=美しい生き方だろうか。

 私は、「人のためにならない善」というものを想像できない。言葉の組み合わせで矛盾しているからだ。では、人のためになる善だけがあるとして、人のためになるとはどういうことか。その人の快楽を増やし、苦痛を減じるということである。それはつまり美である。

 ところで、美を探るにあたって良のもう一つの面を覚えておく必要がある。それは美しいものを支えるものという意味である。絵を描くという趣味のためには寝心地のいいベッドは役立つので、これは良い。しかし、良いと認識された瞬間にそれは好きなもの=美しいものに昇華される。

 追記

 罪を告白しないことそれ自体が罪である。自分のためになるものが善であれば、罪とは自分のためにならない、しかし自分がやってしまった/起こしてしまったことである。恥、汚点である。だがそれを告白しないことは、よりよい自分になる成長を阻むことであり、また一つの罪となる。善と美が一致しているとき、「悪いことをした」と「ダサいことをした」は同じ意味になる。

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