哲学する方法/哲学が不人気な訳

「哲学は学べるが、哲学することは学べない」と大哲学者カントは言いました。
これは「いつ、どこで、だれが、どのように、だれと関わって、なぜその哲学を考えたのか」を知ることはできても「オリジナルの哲学を考える」ことはできないということです。学べる哲学はすべて自分以外の誰かのオリジナル作品です。

では哲学することを始めるのにはなにが必要かというと「驚き」「ひらめき」「直感」です。私は哲学的なことを小学生の頃から考え始めて高校生からメモするようになってここ数ヶ月間noteを書いているので思うのですが、ずーっと自室に籠って呻いていてもあんまり意味がないです。
たしかに、体系的に考えたり蓄えてきた知識を参照するのは大切なのですが、それはあくまで哲学を進める方法であって哲学を始めることではありません。日常や哲学書を読む中で急にビビッと来る瞬間から始まります。

そのビビッを意図的に起こすためには「なぜ」「否定」「思考実験」が必要になります。目の前のコップにしたって「無くてもいいのに、なぜある?」と目的や理由を問うたり、あえて「目の前にコップはない」と否定してその辻褄合わせを考えたり、「このコップがなかったらどうなる?どうなっていた?」と想定することで始められます。
とくに「否定」が重要で、あらゆるものを否定しても残るものは真実だけでしょうし、否定はすでに否定されているもの・ことにも使えます。
たとえば「誰からも好かれる人はいない」というのは「誰からも好かれる人」に対する否定である一方、「誰からも好かれる人はいない」という考えに対する肯定です。ですから「誰からも好かれる人はいないということはない」と否定に否定を繋げられます。これによって不確かなもの・ことに対しても哲学できます。

ちなみに、哲学が不人気なのは人生が「How」だからです。
私たちはゲームを買うとき、あるいは映画のDVDを借りるようなときにどれにするか考えて選びます。その選び方は「パッケージが魅力的だから」「あらすじが気になるから」みたいな、理由に基づいたものです。これは「なぜ(why)」の考え方です。もし人生を始めるかどうか決められるのなら同じように「なぜ(why)」始めるのか、と考えるでしょう。しかし人生はすでに始まっています。ゲームを買ったりDVDを借りたりした後の話です。
ですから、私たちが考えるべきことは(基本的に)どう遊ぶか、なにで再生するか。
「How(どのように)」の考え方です。

子供が「なぜ空は青いのか?」と聞けるのはHowについて考えなくてもいいから=親に養われているからです。
多くの哲学者が裕福な生まれなのは、裕福だと勉強する余裕があるだけではなく、Howに切迫していないからだと思います。

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