人間存在・実存

 なぜ存在するのか、なんのために存在するのか、どうして存在するのか、なぜ存在しないのではないく存在するのか、そういう存在そのものについて問うことはできない・・・三角形の角がなぜ三つなのか問えないようなことである。存在する・しないの話はできない・・・この世には存在しかない、だから存在という言葉はこの世のすべてを指し示すため言葉としての機能が無意味になるからである。だが、どう存在しているかの話はできる。

 人間はどう存在しているのか・・・存在する・しないの話ができないということは、存在するしかないと言える。そして、存在するしかないのに望まし存在になれないのはどうしてなのか・・・どうすれば望ましく存在できるのか。

 (おそらく)最初の記事で述べたように、我々は世界の中の存在として影響し・影響させあっている。そしてもちろん、個人と世界で影響力の戦いをしたときに、個人が必ず敗北する・・・それも徹底的に。生まれたときから死ぬときまで世界に与えられた肉体と魂で世界に暮らすのだから。思考、意思、決意、信念、どれも世界に与えられたものである。

 だから、どう存在しようか・・・なんて悩みすら与えられた・押し付けられたものであって、どう存在するか決めることはできない。この問いも無意味である。だから、唯一できるのは、どのように存在できたら幸せかということ。

 幸福については他のいくつかの記事で語っているので、ここでは自由についてだけ語りたい。

 制限・無制限ということから考えよう。制限されていたらなにかができない。無制限ならなんでもできるのだろうか・・・いや、なんでもできるとしても、なにもしないということはできない。ぼーっと立って呼吸するだけでも行動である。要は自由の刑というやつだ。

 そして、意味もない。法律がないこと、他人になんでも言うことを聞かせられること、空を自由に飛べること、天地を創造できること、それ自体に意味はないし、たとえばリバタリアンでも法律をなくそうなんて思わない。ではリバタリアンが求めている自由とはなんであるか。

 無制限と自由の違い・・・私は自由を「価値のある制限・無制限」と定義する。リバタリアンは無制限を求めているのではなく、リバタリアンにとって価値のある程度の制限と無制限を求めている・・・たとえば法律という制限は求めるが人工妊娠中絶や同性婚の無制限(それにしても一定はあるかもしれないが)を求めている。

 制限・無制限の性質と量を上手いこと計算して、個々人に最適化すれば、個々人は自由になれる。

 言い忘れていたが、私は自由を価値のあるもの=幸せになるためのものと捉える。そして制限されていても、世界内で世界全体の影響に敗北しても、幸せになることはできる。そして幸せなら逆説的に彼・彼女は幸せだろう。

 追記

 私が世界を作る、世界が私を作る、そう言うと、私が先か世界が先かという問題が生まれる。私は世界を「時空間」と定義し、その中や上にある風や地球や人や妄想は諸行無常である=あったりなかったりするものとして、世界に含めない(本当の世界全体にとっては誤差である)。ゆえに、世界が先にある。




 存在しないものについては語れない。語れるとしたら、なんらかの形で存在しているからである。思考や妄想や言葉として・・・どうやって存在しているか、それだけが必要な考察ではないだろうか。




 現象学が無駄になるとは思わない。世界の・・・あるいは世界の一部をどう存在するか問うときに、それは触れるとか嗅げるとかこんな触感がするとかこんなにおいがするとか言えるけども、それもすべて人間の心の中で行われている可能性を考えれば、現象学は存在の捉え方の解析として有用だと思う。

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