祖母が亡くなった話
5月19日21時10分。祖母が亡くなった。
ここ数週間、何が何だかとらえどころのない感情に支配されている。
身近な人の死がこれが初めてということもあり、これをどう処理していいかわからず、今はただ思いつくままに書いてみようと思う。
おばあちゃん子だった。
過去の記事でも書いているが、うちは両親が中学の時に離婚した。
当然、離婚するくらいなのだから、その前からずっと家庭内はうまくいっていなかった。
小学生のころは、そんな両親のいる家にいるのがイヤでイヤで仕方がなく、とにかくイヤで仕方なかったので、休日は祖父母の家に避難するような形で泊まっていた。
夏休みなど長期休みとか、ほぼずっと祖父母の家にいて、特に小学校の高学年のときは、金曜の夜に行き、日曜の夜に帰る生活をしていた。
こんな自分の気持を察知したのか、祖母はいつも自分を温かく迎え入れてくれた。
小学生では食べきれない量の食事を用意して、干したての温かい布団でいつも包んでくれた。
思春期の多感な時期に、惜しみない愛情を注いでくれた祖母は私にとって、育ての親のようなものだった。
祖母から沢山のことを学んだ。
祖母は、読書家だった。
祖母の家の一室は図書館のような蔵書室になっていて、休みの日はずっとその部屋にこもって物語の世界に没頭していた。
自分の本好きはここからきている。
その姿をみて喜んだ祖母は本をどんどん追加してくれた。
森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、川端康成、三島由紀夫・・・文豪と呼ばれる作家たちは、ここで読んだ。
粋な祖母だった。
酒とタバコをやり、コーラとステーキを好んで食べていた。
その姿が剛毅で好きだった。
またお世辞にも裕福な暮らしぶりではなかったが、貧しい素振りはちっともしない人だった。
ボロは着てても心は錦、という言葉がぴったりの人だった。
自身はどんなに貧しくなろうとも、とりわけ私の教育のためなら、いくらでも金銭的援助を惜しまなかった。
そう、今の自分があるのは、祖母のおかげだ。
優しくて強い、いつも笑っている祖母だった。
小さいころ、転んで泣いた自分に、
「男の子は、痛いとか悲しいとかで泣いちゃダメだよ」
と教えてくれた。
そういう時こそ笑うんだ、と。
笑えば、なんでもへっちゃらになるんだ、と。
その証拠に、祖母はどんなに辛くても、いつだって笑っていた。
最期のほうは入退院を繰り返していたが、泣き言なんて一言ももらさなかった。
意識不明の重体から意識が戻った後、力がなく食事も喉を通らない状態だったが、痛いもツライも言わなかったという。
見舞いにきた人に対しても
「よくきたね。大丈夫だよ。ありがとう」
と、たえず周囲に気配りをしていたという。
コロナ禍なので面会も限定的だったが、私は、意識が戻ったというので数日後に会いにいく予定だった。
昨年12月に産まれた、自分の子供をひと目みせたくて会う予定だったのに。
意識が戻った数日後、眠るように亡くなった。
寝顔が安らかだったので、看護師さんも気づくのが遅かったようだ。
身近な人がなくなるのは、これが初めてなので、まるで夢の中のようだ。
ずっといた人がいなくなる。
これからもずっといると思っていた人がいなくなる。
夢を見ている気分だった。
先週金曜に告別式がおこなわれ、仕事を休んで参加した。
冷たく横たわって眠る祖母をみて、初めて実感が湧いて、泣いた。
もう、何もしてあげられない。何も伝えられない。
ただただ悲しくて、泣いた。
新卒の初任給で、祖父母と東北旅行にいった。
その時のお土産をずっと大事に持っていてくれたようで、祖父が棺の中に入れてくれた。
立派になった孫がくれた。
と、周囲に自慢していたという。
それを聞いてまた泣いた。
もっと良いものをあげれば良かった。
もっと色んなことをしてあげたかった。
ずっと結婚しなくて心配かけていた祖母に、子供の姿をみせてあげたかった。
それももうかなわないのだ。
自分以外にも色んな人が駆けつけてくれ、皆、口々に慰労と感謝の言葉を並べていて、生前の人柄の良さがわかった。
最後の最後まで、自慢の祖母だった。
家に帰り、生後5ヶ月の子供が笑顔で迎えてくれる。
まるで励ますように寄り添ってくる姿をみて思う。
命は続く。
思いは繰り返す。
幾度となく蘇ることもできる。
は、何を今さら、と畳に突っ伏して、声を殺してまた泣いた。
言葉にできない感情で心が軋む。
子供は、頭を何度も叩いてきた。
1週間経った今も、気持ちは不安定なままだ。
祖母は何を思って逝ったのだろうか。
苦しくはなかったのだろうか。
幸せだったのだろうか。
そんなことばっかり考えている。
もう終わりにしよう。
ありがとう、おばあちゃん。
愛していたよ。
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