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今日の点群データ#33 ある朝、 『みてね』でタイムリープした

写真共有サービス『家族アルバム みてね』は、もしかしたら僕ら子育て世代にとって最高の親孝行アプリなんじゃないか、とたまに思う。僕らは気軽に我が子の日常をパシャパシャと撮りまくり、アプリにどんどんアップロードしていく。離れて暮らすジジババたちはそれを見て、気が向いたらコメントを残す。またはコメントや足跡機能で僕らもジジババが今日も健在であることを知る。

とにかく、アップロードする側も見てコメントする側も簡単・安心・気軽であることがとても良い。我が家は息子が一歳になった頃に始めて以来、ほとんど毎日写真を上げていて、その便利さに気を良くしてプレミアムプランを契約しているヘビーユーザーだ。長尺の動画をアップできることと、毎月自動で1秒動画が作られるのが結構良い。


思い出が希釈されていく懸念

そう、とても便利になった。自分の子供の頃と比べると、「写真を撮る」ことの手間が違いすぎる。当時はスマホなんてないので、写ルンですなど専用のカメラを持ち歩かなくてはならない。フィルムで撮れる枚数には限りがあり、現像するにはカメラ屋へ行かねばなない。写真にしてもアルバムにしまっておかないと、輪ゴムで縛っただけは絶対にどこに行ったか分からなくなる。今ではこのうちの一つでも心配することがあるのか?いや、どれもまた自動で、ほぼ無料で、一瞬だ。

なので撮る時に考えたりしない。とにかくサッとスマホを出してパッと撮る。とにかく数を撮る。ロケーションも考えないしポーズもとらない。とったとしても5、6枚パシャパシャと撮る。写真一枚に時間をかけない。
こうしてストレージには大量のデータが溜まっていく。見るのもスマホやタブレットなどのデバイスなので、いちいち現像なんかしない。今時は無料無制限のクラウドサービスもあるので、画像をガンガン溜めても手元が嵩張ることはない。

なんだか寂しくないか?とも思う。僕らの親は、子供の僕らの写真を綺麗にアルバムで残してくれている。どこかに行った思い出を綺麗に並べ、コメントを付けたりデコレーションして残す。撮るときだって心持ちが違うはずだ。写ルンですのダイヤルを回すたびに残り枚数を意識する。一箇所ではせいぜい1〜2枚。その場で確認なんて出来ないから撮る側も撮られる側もそれなりに意識する。「写真撮影」という行為そのものが、「食事」や「ショッピング」と同格の重要さを持っていたのだ。だから残っている写真の枚数が少なくても純度が高い。今のように大量生産・大量消費にない温かみがある。便利さの一方で、実はそう思うようになっていた。

ある朝、『みてね』でタイムリープした

ある日の朝、家族で朝食を摂っていると、妻が昨夜の話をした。何やら深夜まで夜更かしをしていたようだったが、「みてね」で息子の動画を見ていたという。何個かお気に入りにチェックしていたので僕に見て欲しいと言うので、僕はパンを食べながら身を乗り出して妻が差し出すスマホの画面をみた。

今から2年前、当時1歳半くらいの息子が、今朝食を食べているダイニングテーブルで、ご飯を食べていた。テーブル付きベビーチェアーの上には小さなお皿とコップ。息子はそのコップを持ち上げて「ぎゅうぎゅうちょーだい!」と言って牛乳を欲しがっている。当時やっと少しずつ喋られるようになってきたので僕も妻も面白がり、少しずつ与えては繰り返し「ぎゅうぎゅうちょーだい!」と言わせていた。僕たちは笑っていたけど本人はとても必死だった。

妻は突然「泣けてきた」と言って涙を流した。確かに気持ちは分かった。撮ったその日のいつもの食事風景。だけどもう戻れない、今振り返るととても懐かしくて愛おしい日々が、何の飾り気もなくそのまま真空パックされて残っていたのだ。それがあまりにも新鮮で、まるでタイムリープして目の前に当時の息子と会っているような、不思議な感覚になった。

大量のデータでリアリティーを増すのかもしれない

それまで僕の中にあった便利さの一方で思い出が希釈されていくという懸念は、別の価値を持ち始めたのではないかという感覚に変わっていった。

クラウド上に大量に残る日常は、連続している時間を手軽に切り取っているので、鮮度が高く保存できるのではないかと思えてきた。そのうちのいくつかが時間を置いてみるとタイムリープしたように感じる写真がある。昔の記念に残そうとして撮る写真と、今の気軽にカメラを向ける行為は、全く別物なのだ。大量のデータがある事による変化だと思うととても面白い。

この先、どのように変わっていくかはわからない。360°カメラで常時撮影し、VRで見るような未来があるのか。いや、思いつく以上に驚く方向に変わると思う。


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