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初期クレしん映画における「オカマ」の役割

 昔は当たり前だったもので、今では無くなってしまったものをふと思い出す瞬間がある。
 それと同じ文脈で「そういえば昔の『クレヨンしんちゃん』の映画にはオカマキャラが印象的な役で出ていたなぁ」と思い至った。
 今回はそのことについて書こうと思う。

 当時の作品内で使用された言葉を扱う関係により、差別的なニュアンスを伴った用語「オカマ」が本稿で頻出すると予想されますが、その点ご了承ください。また、差別や侮蔑の助長を意図するものではありません。
 そして、初期クレしん映画の内容・話の展開で重要なポイント(いわゆるネタバレ)にもガッツリ触れますのでその点が気になる方もお気を付けください。


1 クレしん世界における「オカマ」の立ち位置

 クレヨンしんちゃんワールドというものを思い浮かべてみる時に、何番手かには「オカマ」の存在がチラつくように思う。
 原作者の臼井儀人先生がギャグを描く際の好みのモチーフだったのだろうか。
 思い返せば「ここぞ」という時の決め技でオカマが投入される機会が多かった気がする。まるでリーサルウェポンだ。
 さて、まずは主人公であるしんちゃんこと野原しんのすけがオカマに対してどのような認識を持っていたかを把握する必要がある。
 それこそキャラクターの一人に「オカマのセールスレディ」というのがいたなと思い調べてみると、私の認識に一部誤りがあることが分かった。
 結論から言うと私が思い描いていたのは「売間 久里代(うりま くりよ)」というキャラであり、セールスレディという役柄は合っていた。が、オカマではなかったのである。
 作中でしんのすけからオカマとして扱われているのでてっきりオカマキャラだと私は長年勘違いをしていた。設定ではれっきとした女性ではあるものの、「声が低い」「化粧が濃く容姿がニューハーフに見える」という理由によりしんのすけからオカマ認定を受けていることが判明した(また、売間自身も「(オカマに)よく間違えられるけど」と周囲から自分がオカマっぽく見られていることの自覚がある)。
 しんのすけが売間のことを本気でオカマだと思っているかどうかは実のところ判断が付かない。彼は知能指数が高いため、売間が女性だと実は分かっていながら「オカマ」とおちょくっている可能性がある。ただ、一般的なオカマへ対する彼の姿勢・態度は、売間とのやり取りから読み取れる筈と私は判断した。
 今回、売間のアニメ初登場回「地獄のセールスレディだゾ」(1993年5月オンエア)を見た。
 「これから学習教材を売って売って売りまくるぞ!」と闘志に燃える売間に遭遇したしんのすけの第一声は「オカマですか?」であった。
 ひとしきり攻防があったのち、しんのすけは「オラ、ほんもののオカマにあったのははじめてだ。みんなにじまんしてこよう~」と立ち去ろうとする。
 ここで重要なのは、「みんなにじまんしてこよう~」と思うぐらいには彼にとってオカマは珍しい存在だったということである。もっと踏み込んで言うと「異人」的存在であるといったところか。
 その後の話の運びとしては、さんざんおちょくられた売間が逆上、しんのすけを全速力で追いかけるところを目撃されみさえが警察に通報、それにより町から追われ調子を崩した売間は営業成績がガタ落ちとなりトホホ……というオチであった。
 繰り返しになるが、しんのすけにとってオカマは違う世界の住人である。そのことを示唆した点でこのエピソードは意義深いものとなっている。

2 初期クレしん映画におけるオカマキャラの分析

 さて、初期クレしん映画におけるオカマキャラの役回りを簡単に振り返ってみたい。

2-1 初期クレしん映画のオカマキャラ一覧

■第1作「アクション仮面 VS ハイグレ魔王」
ハイグレ魔王
 本作の大ボス。地球を侵略しようとするオカマの宇宙人。

■第2作「ブリブリ王国の秘宝」
ニーナ、サリー
 秘密結社ホワイトスネーク団の実行部隊の一角を担うオカマの二人組。
 当初はしんのすけを誘拐するなど悪役としての登場であったが、終盤は味方側に寝返った。

■第3作「雲黒斎の野望」
春日 雪乃(かすが ゆきの)
 剣士・春日吹雪丸(かすが ふぶきまる)の妹(本当は弟)。見た目は可憐な女性。
 吹雪丸から「雪乃は生まれながらに自分を女と思い込んでおってな」と聞いたみさえは「つまり、オカマさん?」と発言。

■第4作「ヘンダーランドの大冒険」
マカオ、ジョマ
 本作の大ボス。しんのすけの世界を支配するためにやってきたバレリーナ姿の二人組。自ら「オカマ魔女」を名乗る。

■第5作「暗黒タマタマ大追跡」
珠由良たまゆらブラザーズローズ、ラベンダー、レモン
 味方陣営。ニューハーフパブ「スウィングボール」を営むオカマの三兄弟。武術に長けている。
ジャーク
 終盤、本作のマクガフィンである「タマ」が二つ揃った時に登場した魔人。元々は「どんな兵器より強い」「世界は恐怖と闇に包まれる」と称されるほどの莫大な魔力を有していたが、2000年ものあいだ放置されていたことで魔力の期限が切れてしまい、その結果「ただのオカマ」に。

■第6作「電撃!ブタのヒヅメ大作戦」
アンジェラ青梅おうめ
 コンピューターウイルス「ぶりぶりざえもん」の開発者である大袋博士の助手。コメディリリーフ。

2-1 分析

 第7作「爆発!温泉わくわく大決戦」にも「女よりも男が好きらしい」と言及される「キラーフィンガー・ジョー」という男性キャラ(敵幹部の一人)が登場する。若干の「オネエ」口調、しなを作りながら歩くなどの「それっぽい」特徴はあるものの、中性的な見た目をしており、前作までのステレオタイプな「オカマ」の描かれ方をしていない。
 よって初期における「オカマキャラ」の伝統は「電撃!ブタのヒヅメ大作戦」を以て一旦途絶えたと言えそうだ。

 オカマキャラは、敵・味方のどちらにも起用されていることが分かる。
 個人的には大ボスを務めた「ハイグレ魔王」「マカオ、ジョマ」あたりが印象深い。
 悪役ではあるものの、どこか独特の愛嬌やカリスマ性があり「完全な悪」ではない点が好ましい。
 制作スタッフ陣の「見た目が女性っぽい男性キャラ」を出す、いや出さねばなるまいという執着を感じられるのは「雲黒斎の野望」の雪乃だろうか。
 雪乃は性自認が「女性」の男性である。それにより吹雪丸は「世継ぎ」となるために男として養育されたというもっともらしい理由が設定されているが、雪乃はチョイ役でありそこまでの理屈を付けてでも出したかったのか?と思わないでもない(吹雪丸が雲黒斎を打ち倒す動機は雪乃の救出にあるため、その意味では重要なキャラだが)。
 現在の尺度から見るとみさえの「つまり、オカマさん?」というリアクションは的外れのように思える。ただ、最初からズレたことを言おうという志向は見受けられないため、一般的に異性愛者(みさえ)が「自身を女性と自認する男性」と対峙した際にはその程度の理解・認識しかなかったという当時の世相を反映した台詞とも言えるだろう。

 「暗黒タマタマ大追跡」を最後に「オカマ」という用語は使用されなくなったという。
 「電撃!ブタのヒヅメ大作戦」のアンジェラ青梅は、従来であれば絶対に「オカマ」と形容されるキャラクター造形であるが、確かにその言葉自体は出てこない。
 役回りとしても第5作までは物語の根幹に関わる部分にオカマキャラは配置されていたが、コメディリリーフという役割はあるものの、アンジェラ青梅は物語の進行に不可欠の存在ではない。
 第7作でオカマキャラの灯は一旦消えるが、その前の第6作において、単語の消滅の他に物語上の役回りとしてもオカマキャラに一定の後退があったことは強調しておきたい。

3 初期クレしん映画における「オカマ」の役割

3-1 野原一家を異世界に送り込みたい制作スタッフ

 さて、これで私が展開したいことの大体の材料が揃った。ここからが本題である。
 今回書いている原稿は、私としては珍しく結論ありきで論を進めている。
 私は前々から初期クレしん映画におけるオカマキャラについては思うところがあり、結論らしきものを先に言うと「オカマキャラはクレしん異世界の水先案内人を果たしていた」となる。
 「クレヨンしんちゃん」の映画が始まった経緯については手元に資料が無く想像するしかないのだが、クレしんはアニメ版の放映から社会現象とも呼べるすさまじい人気を巻き起こした作品であり「じゃあ映画を作ろう」という流れは必然であっただろう。
 当初は二本立て、三本立てといった中篇を連続でやるオムニバス形式とする案もあったらしいが、ご存知の通り「アクション仮面VSハイグレ魔王」という一本の長編として制作された。
 アニメ「クレヨンしんちゃん」「ドラえもん」は共にシンエイ動画が制作している。野原一家が異世界(パラレルワールド)に行く第1作の展開は、兄貴分である「ドラえもん」の映画版を参考にしたのだろうか。
 ただ、「ドラえもん」はドラえもん自身が「未来からやってきたネコ型ロボット」であり、ひみつ道具の要素からも分かる通りれっきとした「SFモノ」である。それゆえに日常と未来世界を行き来する感覚が元から出来ており、異世界との親和性が高い作品設定となっている(なんなら気軽に異世界に行けてしまう「どこでもドア」というツールさえある)。
 元々の原作が大人向けのギャグ漫画であり、アナーキーかつなんでもありな作風ではあるものの、通常放送のクレしんのテレビアニメは「風変わりな幼稚園児とその家族の日常」のエピソードに終始徹しているため、日常から異世界までの飛距離が「ドラえもん」よりはるかに遠く、第1作からパラレルワールド的な展開を持ち出すのは非常に勇気がいる決断だったと思われる。
 今だと映画版における野原一家はわりとすぐ異世界にアクセスする印象があるが、そのスピード感に慣れた現在の視点から第1作を見返すと、やや「かったるい」と思えるくらいに日常から徐々に異世界に移行していく様子が丁寧に描かれている。
 第1作において「時空移動マシン」を擁するアクション仮面アトラクション・ハウスという施設に野原一家が到着するのは上映開始からなんと約40分後であり、それまでは「これ映画版だったっけ?」と疑うくらいには「日常」的なエピソードが続く(第2作では上映開始から約20分後に野原一家は「オカマの二人組[ニーナ、サリー]に飛行機をハイジャックされる」という非日常に遭遇する。前作よりは大幅にスピードアップしたが、これでもまだ現在の基準からすると遅い方かもしれない)。
 具体的には幼稚園の夏休み開始付近のエピソードが中心なのだが、チョコビにオマケで付いてくるアクション仮面カードをめぐるしんのすけと級友たち(この頃はまだ『かすかべ防衛隊』という名称は無かった)の話なんかはそのままテレビ版のエピソードとしてもいけそうである。ただ、しんのすけが引き当てたアクション仮面カードのレアカードは異世界(パラレルワールド)への「チケット」の役割を果たし、物語上の重要な仕掛けとなっている。
 普段は日常にガッシリ縛り付けられている野原一家をいかにして非日常へと飛躍させられるか。そのあたりの丁寧な接続の描き方には当時の制作スタッフの「映画版がコケることでクレしんを損なってはならない」という苦心や作品への愛着が垣間見える。
 その意味で言うと、同じくシンエイ動画がアニメ版を手掛けた「あたしンち」の劇場版が軌道に乗らなかった(第2作で製作打ち止め)理由は、こちらも普段は「日常」に縛り付けられている「あたしンち」の登場人物に降りかかる(映画版ならではの)超常現象の動機付けの不足、そして異世界との接続の描写が不十分であり、日常と非日常を結び付ける説得力を失ってしまったからではないかと推測できる。

3-2 「王」を納得させる理屈

 第1作は原作者・臼井儀人が最も映画製作に関わった作品とされており、原作漫画版を描き下ろすほどの力の入れ様である。
 映画版の製作に意欲的だった臼井は、「クレヨンしんちゃん」ワールドにおける異世界を象徴するイコンを欲していた筈である。その時、クレしん世界の創始者である臼井が自身の直感で引き寄せたのが「オカマ」だったのではないだろうか。
 本稿の「1」で私はクレしん世界におけるオカマは「異人」的存在、「違う世界の住人」であると位置付けた。
 これはウィキペディアの完全な受け売りであるが、「異人」の項目において「他界から来訪する仮面仮装の神を『異人』と呼び」という記述がある。そういえば大ボスのハイグレ魔王も当初はあやしげな仮面で顔を隠していたっけ。
 クレしん世界においては野原しんのすけが絶対的な中心である。
 作中で引き起こされる騒動・ドタバタは彼がすべて台風の中心となっており(なんせ『嵐を呼ぶ園児』と形容されるぐらいだ)、敵も味方も等しく翻弄され、物語の展開は彼の舌先三寸次第である。
 つまり、彼にとって納得のいく状況・設定であれば、その解釈はクレしんの物語世界全体に拡張・敷衍ふえんされる。
 しんのすけの脳内を乱暴に書き起こすと、異世界の住人が攻めてきた → 軍団のボスはオカマだ → オカマは(オラにとって)珍しいから異世界の住人たり得る → それなら納得だ、という思考プロセスである。道理もへったくれも無く、通常であれば「そんなムチャな」と思うところの無理をすごいパワーで押し通し、しんのすけの周囲に疑問を持たせない。何故ならば、クレしん世界においては野原しんのすけが唯一の「ルール」であり「王」だからである。
 商業作品において「夢オチ」はご法度であるが、クレしん映画はそのサイケデリックな展開から全作品が「……という、オラが見た夢でした。おしまい」で終わっても本来おかしくない。
 ただ、野原しんのすけのぶっ飛んだ思考・感性がジュクジュクに染みわたった物語世界はとっくに「夢」の論理をも超えてしまっているので「夢オチ」にする必要がないというだけの話である。
 初期クレしん映画における「オカマ」の役割は「ここからは異世界ですよ」としんのすけに最速で理解させるためイコンであり、日常と非日常を接続する「パスポート」なのである。

3-3 クレしん映画が「原点回帰」をするためには

 いつしかクレしん映画からオカマキャラは消えた。
 時代からの要請によるところは当然大きいと思われるが、それとは関係なく物語の展開上「もう必要がなくなった」からとも言える。
 何故か。
 それは、劇場版が回数を積み重ねていく内に「映画においてしんのすけは異世界に行くもの」という認識がもうすでに出来上がったからである。
 だから、大ボスがオカマじゃなくても、オカマの二人組に誘拐されなくても、味方が三人組のオカマじゃなくても、重要なカギを握る博士の助手がオカマじゃなくても、しんのすけ達は自由に異世界に突入し、世界の平和を救って日常に帰還する「そういうもの」という仕組みが観客に浸透した。
 だから、わざわざ「ここからは異世界ですよ」とアナウンスする存在が必要不可欠ではなくなったため、従来その役割を果たしてきたオカマキャラはクレしん映画の世界から卒業と相成ったのである。アンジェラ青梅のコメディリリーフという役柄的な一歩後退は、来たるべき「卒業」の予兆だったのだ。

 クレしん映画は相変わらずの人気を博しており、今年上映予定の「オラたちの恐竜日記」で第31作目となる。
 30年以上もの歴史ともなってくると、制作スタッフのインタビュー記事では「原点回帰」というある意味お定まりの言葉が出てくるようになってきた。
 私からの一つの提案でいうと、原点回帰のためには「オカマ」を出すのが一番手っ取り早いのだが、それはもう当然時代的にNGだ。
 だから、初期においてオカマキャラが果たしてきた役割を意識するといい。
 野原しんのすけというクレしん世界の王に「ここからは異世界なんだな」と一発で理解させるキャラを登場させること、それが「原点回帰」の近道である気がしてならない。
 私はそのキャラを目にしたなら、在りし日の「先輩」オカマキャラ達の活躍に思いを馳せながらもとりあえずは目の前のスクリーンに集中し、映画版ならではの「クレヨンしんちゃん」を思いっきり楽しむことであろう。


あとがき

 クレしん映画には思い入れがあり、直近の「しん次元!」を除く全作品を鑑賞済みである。
 今回久しぶりに初期作品を見返した。それが出来ただけでも本稿を書く意義があったと言える。ベタな話ではあるがデジタル制作以前のセル画の映像には独特の色気があり、いわゆる「思い出補正」とか関係なく見ていてワクワクするものがそこにはあった。
 私はとっくに作品の対象年齢から外れているので別にワクワクしなくてもいいのだが、これからもクレしん映画が現役のお客さん(子供さん)にとってワクワクできるものであることを切に願う。


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