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三国志記録17
196年(建安元年)
曹操(42)は羽林監(六百石)の棗祗(そうし)や韓浩元嗣(かんこう・げんし)らの意見を採用して、初めて屯田制を実施した。
棗祗を屯田都尉に任命している。
韓浩は護軍に任じられた。
このころ、荒廃と動乱に遭遇してから、食料は不足がちであった。
諸侯は一斉に蜂起したが、一年間の食糧計画さえ持たなかった。
飢えれば略奪を働き、腹が満たされれば余り物を捨てる。
瓦が砕けるようにもろく崩れ、流浪し、敵もないのに自分から敗れる者が数え切れぬほどあった。
人々は互いに食い合い、郷村は荒れてひっそりとしていた。
曹操は言った。
「そもそも国を安定させる方策は、強力な軍隊と充分な食糧にかかっている。秦の人は、農業重視によって天下を併合し、孝武帝は屯田によって西域を平定した。これが前の御代の優れた手本である。」
こうして民を募集して、許(きょ)の近辺に屯田させ、百万石の穀物を蓄積するようになる。
また、州都に田官を設置することを定めとし、それぞれの場所で穀物を蓄積させた。
197年(建安2年)春正月
曹操(43)は宛(えん)に赴いた。
張繍(ちょうしゅう)は降伏したが、後悔して再び反逆した。
曹操軍は負け戦となり、曹操自身も流れ矢で右臂(みぎひじ)怪我をした。
曹操が乗っていた「絶影(ぜつえい)」という名馬も流れ矢で額と足を怪我し、動けなくなるが、息子の曹昴子脩(そうこう・ししゅう)も怪我を負い動けなくなり、曹操に馬を提供した。
曹操はこうして難を逃れたが、曹昴は討死した。
弟の曹彬(そうりん)の子、曹操にとって甥にあたる曹安民(そうあんみん)も討死した。
曹操は舞陰(ぶいん)まで撤退するが、張繍は騎兵を連れて荒らしに来る。
曹操はこれを撃破。
張繍は穣(じょう)まで敗走し、劉表景升(56)と連合した。
曹操は将兵に言った。
「私は張繍らを降伏させながら、人質を取るのはまずいと考えたために失敗し、こんな結果を招いた。私は失敗の原因が分かった。諸卿、見ていてくれ。今からのちは二度と負けはしないから。」
こうして許に帰還した。
曹操が舞陰から許に戻ると、南陽・章陵の諸県は再び背き、張繍に味方したので、曹洪子廉(そうこう・しれん)に攻撃させたが勝てず、曹洪は引き返して葉(しょう)に駐屯した。
その後も、この地は張繍勢にしばしば侵害されることになる。
197年(建安2年)
曹操(43)は弟の曹彬の子、曹安民を亡くしたことを悔やみ、子の曹均(そうきん)を曹彬の養子とした。
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