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三国志記録15

195年(興平2年)
曹操(41)は再び定陶(ていとう)を攻撃した。


195年(興平2年)
曹操(41)は定陶(ていとう)を落とし、兵を分けて諸県を平定した。

呂布奉先(りょふ・ほうせん)は東にいる劉備(35)の元に走った。

張邈孟卓(ちょうばく・もうたく)は呂布に付き従ったが、弟の張超(ちょうちょう)に命じ家族と共に雍丘(ようきゅう)を保持させた。

また、東平(とうへい)出身の畢諶(ひつしん)も張邈と共に呂布に付き従った。


195年(興平2年)8月
曹操(41)は張超ら張邈孟卓の一族が拠る、雍丘(ようきゅう)を包囲した。


195年(興平2年)10月
天子は曹操(41)を正式に兗州牧に任命した。


195年(興平2年)
張邈孟卓は雍丘(ようきゅう)に立てこもる一族を救うため、袁術公路(えんじゅつ・こうろ)(41)の元に救援要請に赴く途中、部下たちに殺された。


195年(興平2年)12月
曹操(41)が、8月から包囲していた雍丘(ようきゅう)が陥落し、張邈孟卓の弟、張超は自殺した。

張邈の三族(父母・兄弟・妻子)を処刑した。

更に東方に向かい、陳(ちん)の地を攻略するため、曹操は武平(ぶへい)を攻めた。

袁術公路(41)が任命していた陳国の相、袁嗣(えんし)が抵抗した。


196年(建安元年)春正月
献帝劉協(16)が安邑(あんゆう)にて建安と改元。


196年(建安元年)春正月
曹操(42)は昨年からの武平(ぶへい)攻めを続行し、袁術公路(42)が任命していた陳国の相、袁嗣(えんし)は降伏した。

天子が東に流浪していると聞き、曹操はこれを迎え入れようとしたが、諸侯の中には疑念を抱く者もあった。

荀彧文若(じゅんいく・ぶんじゃく)(34)と程昱仲徳(ていいく・ちゅうとく)(56)が勧めたので、曹洪子廉(そうこう・しれん)に兵を与えて西方に迎えに行かせたが、衛将軍の董承(とうしょう)が袁術の将軍の萇奴(ちょうど)と共に要害を盾に抵抗し、曹洪は進むことが出来なかった。


196年(建安元年)2月
曹操(42)は汝南(じょなん)・潁川(えいせん)を根拠に荒らしまわっていた黄巾賊の残党、何儀(かぎ)・劉辟(りゅうへき)・黄邵(こうしょう)・何曼(かまん)を攻めた。

彼らはそれぞれ数万の軍勢を擁していた。

曹操は黄邵・何曼を斬った。

何儀や劉辟とその軍兵は全て降伏した。

天子は曹操を建徳将軍に任命した。


196年(建安元年)6月
曹操(42)は鎮東将軍に昇進し、費亭侯に封じられた。

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