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三国志記録19

198年(建安3年)9月
曹操(44)は呂布奉先討伐のため東方に向かった。


198年(建安3年)10月
曹操(44)は彭城(ほうじょう)を屠り、その相の侯諧(こうかい)を捕らえた。

下邳(かひ)まで進撃すると、呂布は自ら騎兵を率いて迎撃してきた。

大いに打ち破り、呂布配下の勇将である成廉(せいれん)を捕虜にした。

下邳城下まで追撃すると、呂布は恐慌をきたして降伏しようと考えた。

陳宮公台(ちんきゅう・こうだい)らは、その計画を押しとどめ、袁術公路(44)に救援を要請して、呂布に城から打って出ることを勧めた。

しかし、また敗れたので、呂布は城を固守する方針を取った。

当時、曹操軍は連戦によって極度に疲弊していたので、帰還しようと考えたが、荀攸公達(42)や郭嘉奉孝(29)の計略を採用し、泗水(しすい)・沂水(きすい)を決壊して城に灌いだ。


198年(建安3年)11月
張楊稚叔(ちょうよう・ちしゅく)が配下の楊醜(ようしゅう)に殺害された。

同僚の眭固白兎(すいこ・はくと)は、これに激怒し、楊醜もまた、眭固に殺害された。

眭固は軍勢をまとめて袁紹本初の配下となり、射犬(しゃけん)に駐屯した。


198年(建安3年)
水攻めにより包囲した下邳(かひ)において、呂布奉先配下の宋憲・魏続らは陳宮公台を捕らえ、城を上げて降伏した。

呂布も生け捕りにされ、陳宮と共に処刑された。

泰山の臧覇宣高(別名を奴寇)・孫観仲台(別名を嬰子)・呉敦(ごとん)(別名を黯奴(あんど))・尹礼(別名を盧児)・昌豨(しょうき)(別名を昌覇)はそれぞれ徒党を集め、呂布に付き従っていたが、呂布が敗北したのち、捕虜となった。

曹操(44)は彼らを手厚く待遇し、青州・徐州に海岸地帯を付けて、彼らに委ねた。

また、瑯邪(ろうや)・東海(とうかい)・北海(ほっかい)を分割して、城陽(じょうよう)・利城(りじょう)・昌慮(しょうりょ)の郡を作った。

呂布の配下となっていた畢諶(ひつしん)も生け捕りになっていた。

畢諶は一度、張邈孟卓の元に走り、裏切っていたので、人々は心配したが、曹操は彼を許し、魯国の相とした。

曹操は言った。

「だいたい、その親に孝行な人間で、主君に忠義でない者があろうか。私の必要とする者だ。」

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