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日本史人物伝 No.76~80

No.76 円載

806(大同元)頃~877(元慶元)

読み:えんさい

姓:不明

名:不明

法諱(ほうき):円載

性別:男

出身地:大和国(やまと・のくに。現在の奈良県)

平安時代前期の天台宗の僧侶。


No.77 仁好

生没年不詳

読み:にんこう

姓:不明

名:不明

法諱:仁好

性別:男

出身地:不明

平安時代前期の天台宗の僧侶。


No.78 伴始満

生没年不詳

読み:とも・の・はじめまろ?

姓:伴(とも)

名:始満(はじめまろ?)

性別:男

出身地:不明

平安時代前期の遣唐使の従者。


No.79 仁済

生没年不詳

読み:にんさい

姓:不明

名:不明

法諱:仁済

性別:男

出身地:不明

承和度遣唐使の留学僧(るがくそう)。天台宗の僧侶。唐人?


No.80 順昌

生没年不詳

読み:じゅんしょう

姓:不明

名:不明

法諱:順昌

性別:男

出身地:不明

承和度遣唐使の留学僧(るがくそう)。天台宗の僧侶。唐人?


承和度遣唐使

円載は、幼い頃から日本天台宗の祖、最澄(さいちょう)に師事している。

838年(承和5年)、天台座主、円澄(えんちょう)の天台宗義に関する疑問50条を携え、唐に渡った。

当時、日本国内では解決できない仏法の疑問点があり、大陸の僧侶に問いただすことがおこなわれていた。

弟子の仁好(にんこう)と御供の伴始満(ともの・はじめまろ?)、仁済(にんさい)、順昌(じゅんしょう)も付き従った。

ただ、仁済と順昌に関しては、838年(日:承和5、唐:開成3)の唐に対する天台山(てんだいさん)行きの申請(8月4日条)も、翌年(日:承和6年、唐:開成4年)の唐側からの許可(2月26日条)が下りた際も、円載、仁好、伴始満の三人の名前のみであるので、二人は唐人の可能性もある。

その後、円載は、天台山の広修(こうしゅう)・維蠲(いけん)の「唐決」を得て、これを仁好(にんこう)に託し、日本に送った。

その後も唐に残り、学識を持って、皇帝の宣宗(せんそう)の帰依を受けている。

845年(日:承和12、唐:会昌5)に起こった、会昌の廃仏という弾圧期には、多くの僧と同様に強制的に還俗(げんぞく:一般人に戻ること)させられ、妻子も持った。

855年(日:斉衡2、唐:大中9)には、円珍(えんちん)とともに、長安の青龍寺法全(はっぜん)から灌頂(かんじょう)を受けている。

灌頂とは、戒律や資格を受け、仏法の正統な後継者になることである。

この間、日本の朝廷から、2度にわたり黄金の送金を受けている。

864年(日:貞観6、唐:咸通5)、真如法親王(しんにょ・ほっしんのう:高岳親王のこと)や宗叡(そうえい)が長安に到着した際は、在唐30余年になる円載が手配し、長安の西明寺に案内した。

877年(日:元慶元、唐:乾符4)、日本へ帰る途中で船が難破し、遭難死した。

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