三国志記録 4
187年(中平4年)ころ
冀州の刺史、王芬(おう・ふん)、南陽の許攸子遠(きょ・ゆう・しえん)、沛国の周旌(しゅう・せん)、陳蕃の息子である陳逸(ちん・いつ)、平原の方術士、襄楷(じょう・かい)は、霊帝の廃位と合肥侯の擁立を画策した。
会合のとき、襄楷は言った。
「天文現象は宦官に不利です。黄門・常侍といった高官一族は滅亡するでしょう。」
それを聞いて、陳逸は喜んだ。
王芬は言った。
「そういうことならば、私が除き去ろう。」
霊帝は北方の河間(かかん)にある旧宅に巡行することになった。
霊帝は即位前、河間王であった。
王芬らは、その機会に乱を起こそうと計画した。
上奏して、黒山の賊が攻撃して圧迫していると述べ、軍隊を出動させる許可を求めた。
ちょうどそのとき、北方に赤気がたちこめ、東西に渡って空にたなびいた。
太史(天文係)が「陰謀があるに違いありません。北方への巡行は不適当です。」と進言したので、帝は中止した。
王芬には軍隊出動を中止する勅命を下し、急に彼を召し出した。
王芬は恐懼のあまり自殺した。
曹操のもとにも、霊帝廃位と合肥侯擁立計画の誘いがきていた。
曹操はこれを拒絶した。
下記は、そのときの文章。
「そもそも天子廃立の行為は、天下にとって最大の不祥事です。
古人には、成功失敗を秤にかけ、ことの重大性を考慮して実行に移した者がおります。
伊尹(い・いん)と霍光(かく・こう)がそれです。
伊尹は至忠の誠を胸に抱き、宰相の権勢を拠りどころとし、官僚たちの上に立っておりました。
それゆえに天子廃立の手段は、計画のままに成功したのです。
霍光となりますと、国家委託の任務を引き受け、皇室の姻戚関係という地位を利用できたうえに、宮廷内では皇太后の権力掌握の重みを頼りとし、宮廷外では高官たちの廃立に同調する状況が存在しました。
昌邑王は即位後、日が浅く、まだ貴族寵臣の与党はなく、朝廷には直言の臣、乏しく、発議は側近から出ておりました。
それゆえに計画は球を転がすように円滑に実行され、行動は朽ち木を砕くように容易く成功したのです。
今、諸君らは、いたずらに先例の容易さに目を奪われ、現在の困難さを見極めていないのです。
諸君、よく自分で検討してみてください。
民衆との結び付き、仲間との連合は、七か国(呉楚七国の乱を言っている)の場合と比較してどうですか。
合肥侯の高貴さは、呉・楚とどちらが上ですか。
それなのに非常行動を起こし、必勝を期待するのは、危険ではないでしょうか。」
188年(中平5年)
州を司る刺史を牧と改める。
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