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三国志記録14

194年(興平元年)
濮陽(ぼくよう)にて呂布奉先(りょふ・ほうせん)と曹操(40)は百余日の間、対峙していた。

そこに蝗が湧き起こり、人民はたいそう飢餓に苦しんだ。

呂布の糧食も尽き果てたので、両者共に引き上げた。


194年(興平元年)
曹操(40)は鄄城(けんじょう)に帰還した。

呂布奉先は、乗氏(じょうし)に到着したが、その県の人、李進(りしん)に撃破され、東に向かって山陽に駐屯した。

そのとき、袁紹本初(えんしょう・ほんしょ)が人をやって曹操を説き伏せ、和議を結ぼうと願った。

曹操は兗州を失ったばかりで、兵粮も底を突いていたので、これを認めようとしたが、程昱仲徳(ていいく・ちゅうとく)(54)が引き止め、曹操はそれに従った。


194年(興平元年)10月
曹操(40)は東阿(とうあ)に赴いた。

この年、穀物は一石が五十余万銭に高騰し、人間同士が食い合うほどだった。


195年(興平2年)
曹操(41)は定陶(ていとう)を攻撃した。

済陰(さいいん)太守の呉資(ごし)は定陶(済陰郡の政庁が定陶にあった)の南城を保持しており、陥落させられないうちに、呂布奉先が到着したので、今度は彼を攻撃して打ち破った。

定陶は落とせなかった。


195年(興平2年)4月
呂布奉先の将軍、薛蘭(せつらん)と李封(りほう)が鉅野(きょや)に駐屯していたので、曹操(41)は彼らを攻撃した。

すると呂布が救援に駆けつけてきた。

薛蘭らは敗れ、呂布は逃走した。

かくして薛蘭らを斬った。


195年(興平2年)
呂布奉先は再び陳宮公台(ちんきゅう・こうだい)と共に一万余人を率い、東緡(とうびん)からやってきて、東阿(とうあ)の曹操(41)に戦闘をしかけた。

このとき、兵は皆、麦を奪いに出かけており、残っている者は千人足らず、屯営は堅固でなかった。

曹操はそこで婦女子に命じてヒメガキを守らせ、全兵力を上げて防いだ。

屯営の西に大きな堤があり、その南には樹木が鬱蒼と茂っていた。

呂布は伏兵があるかと疑念を抱き、「曹操はたくらみが多い。伏兵の中に入ってはならぬぞ。」と言い合い、軍を引いて、その南十余里のところに駐屯した。

翌日、再び来攻した。

曹操は兵を堤のうちに隠し、半数の兵を堤の外に出した。

呂布軍が前進してきたので、軽装の兵に命じて戦闘を挑ませた。

合戦になると、伏兵は全員、堤の上に登り、歩兵騎兵が一斉に進撃し、大いに敵を打ち破った。

呂布軍の鼓車(陣太鼓を乗せた車)を捕獲し、呂布軍の陣営まで追撃してから引き揚げた。

その夜、曹操は奇襲の軍を放って攻撃し、大勝利を収めた。

呂布は夜にまぎれて逃走した。

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