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三国志記録20

199年(建安4年)2月
曹操(45)は昌邑(しょうゆう)まで帰った。


199年(建安4年)4月
曹操(45)は射犬(しゃけん)に駐屯する眭固白兎(すいこ・はくと)を撃滅せんと、軍を進めて黄河に臨み、史渙公劉(しかん・こうりゅう)と曹仁子孝(そうじん・しこう)(32)、徐晃公明(じょこう・こうめい)に黄河を渡って攻撃させた。

眭固は張楊の元長史である薛洪(せつこう)と河内(かだい)太守の繆尚(きゅうしょう)を留めて守らせ、眭固自身は北方に行って袁紹本初に救援を要請しようとしたが、犬城(けんじょう)で曹仁と史渙の軍勢に遭遇し、戦闘となった。

眭固は討死した。

曹操は黄河を渡り、射犬を包囲した。

薛洪と繆尚が降伏したので、二人を列侯に任じ、引き上げて敖倉(ごうそう)に駐留した。

かつて兗州陥落時に曹操を見捨てて逃亡した魏种(ぎちゅう)を捕らえたが、その才能を惜しみ、河内太守に取り立て、河北の軍政を委ねた。


199年(建安4年)
袁紹本初は十余万の勢力となっており、許を攻めようとしていた。

諸将は敵対できないと考えたが、曹操(45)は言った。

「私は袁紹の人柄を知っている。志は大きいが知恵は小さい。顔つきは厳しいが肝は細い。人を妬み、上に出ようとして威厳に欠ける。兵は多いが、けじめがはっきりしていない。将はいばるだけで、政治上の命令には一貫性がない。土地は広く、糧食は豊でも、私への捧げ物になるだけだ。」


199年(建安4年)6月
袁術公路(45)は行き詰まり、袁紹本初を頼ろうとした。

袁紹の子、袁譚顕思(えんたん・けんし)は青州から人をやって、袁術を迎えに行かせた。

袁術は下邳(かひ)を経由して北方に赴くつもりだったが、曹操(45)は劉備(39)と朱霊文博(しゅれい・ぶんはく)、路招(ろしょう)を派遣し、これを遮ろうとした。

程昱仲徳(59)と郭嘉奉孝(30)は、曹操が劉備を派遣したと聞き、曹操に言った。

「劉備を自由にしてはなりませぬ。」

曹操は後悔し、あとを追いかけさせたが、間に合わなかった。

袁術は結局、道中で病没した。


199年(建安4年)
劉備(39)は董承(とうしょう)らと謀反を企んでいたが、下邳(かひ)まで来ると、ついに徐州牧の車冑(しゃちゅう)を殺害し、旗揚げして沛国に駐屯した。


199年(建安4年)8月
曹操(45)は黎陽(れいよう)に軍を進め、臧覇宣高らを青州に侵入させて斉・北海・東安(とうあん)を打ち破り、于禁文則を黄河の河岸に駐屯させておいた。

徐州で叛旗を翻した劉備(39)に対しては、劉岱公山と王忠を派遣したが、勝利を得られなかった。

劉備は劉岱らに向かって言った。

「おまえたちが百人来たとしても、俺をどうすることも出来ぬ。曹公自身がきたら、どうなるか分からぬがね。」


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