ジャパンウォーズ7 崗に舞う米
【神武東征編】エピソード7 崗に舞う米
紀元前667年11月9日、狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)ら天孫一行は、筑紫(つくし)の国の岡水門(おかのみなと)に到着した。ちなみに、筑紫とは、今の九州のことである。
台本の一つ「日本書紀(にほんしょき)」では、滞在が二か月余りとなっているが、もう一つの「古事記(こじき)」では、一年滞在したと記録されている。
この違いは何なのか、今では判然としないが「古事記」では、ここに岡田宮(おかだ・のみや)という行宮(あんぐう)(仮の御所)を作ったとしている。
では、サノたちは、この岡田宮で何をしたのだろうか。
サノ「米を作ったのじゃ。」
ここで、サノと共に、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)と次兄の稲飯命(いなひ・のみこと)も解説に加わった。
イツセ「我らの目的は、東に移ることだけではないっちゃ。各地に米を伝えることも、大切な目的なんやじ。」
稲飯(いなひ)「じゃが(そうだ)。崗(おか)の国は、まだ水稲耕作(すいとうこうさく)を知らないっちゃ。それを伝えるんや。」
そこへ、家来の天道根命(あまのみちね・のみこと) (以下、ミチネ)と息子の比古麻(ひこま)も解説に参加した。
ミチネ「その前に、まず、岡田宮の所在地を確認しておきましょう。二千年後の地名にすると、福岡県(ふくおかけん)北九州市(きたきゅうしゅうし)八幡西区(やはたにしく)となりまする。」
比古麻(ひこま)「岡田宮は神社として残っておりますよ。その名も岡田宮(おかだぐう)。そのまんまですね。なお、熊族(くまぞく)が、祖先神(そせんしん)を祀(まつ)っていた社(やしろ)であると伝わっておりまする。昔は広大だったそうですが、今は狭(せば)められ、我(わ)が君(きみ)が住んだ宮も住宅地となっておりまする。」
サノ「熊族とは何じゃ?」
ミチネ「熊族とは、古代の崗(おか)地方を治めた豪族ですぞ。ちなみに、崗地方は、今の遠賀郡(おんが・ぐん)一帯を差しまする。すぐ傍の一宮神社(いちのみやじんじゃ)には、我が君が祭祀(さいし)をおこなったとされる、磐境(いわさか)も残っておりまする。」
ここで、熊族の長である熊鰐命(くまわに・のみこと)が、唐突に登場してきた。
熊鰐(くまわに)「ちょっと待ってほしいっちゃ。ここは、わしの国やろ? なんでサノ様が祭祀をおこなってるんや? でたん(とても)ビックリしたっちゃ。なし(なんで)?」
サノ「わしが祭祀をおこなったということは、汝(いまし)が従ったということじゃな。」
熊鰐(くまわに)「そういうこつ(こと)ね。従った証拠みたいなもんですか?」
サノ「そう受け止めてくれれば良い。」
比古麻(ひこま)「ちなみに、熊族の『熊』は『古事記』によく出てくる『わに』のような言葉で、海の豪族という意味合いがあるんです。それを示す逸話として、熊鰐殿らが、船団を率いて我々を迎えたという伝承も残っておりまする。熊鰐殿らが出迎えた崗水門とされる芦屋町(あしやちょう)には、神武天皇社(じんむてんのうしゃ)もありまする。」
そのとき、筋肉隆々の日臣命(ひのおみ・のみこと)が噛みついてきた。
日臣(ひのおみ)「じゃっどん、おかしくなかか? なして(なぜ)、わざわざ北九州に来てるんや? 前回の菟狭(うさ)から、すぐ中国地方に行った方が良(よ)かち思うんやが。」
ミチネ「実は、この地は交通の要衝(ようしょう)でな・・・。そのようなことで、九州北部を押さえるのに必要だったというわけじゃ。」
日臣(ひのおみ)「まこっちゃ(ホントに)?」
ミチネ「そうとしか考えられぬ。」
日臣(ひのおみ)「わい(おまえ)の想像やないかっ!」
サノ「いや、ミチネの言う通りぞ。この地は大切なところじゃ。ここが不安定では、安心して東には行けぬ。どうしても訪問する必要があったのじゃ。」
熊鰐(くまわに)「ちょっと待ってほしいっちゃ。ここが不安定って、どういうことっちゃ? サノ様は、ここに来るまで、わしらが抵抗するとでも思うちょったとですか?」
イツセ「熊鰐殿。そういうことやない。政治的に不安定っちゅう意味やなくて、生活を安定させたいと思っちょるんや。」
熊鰐(くまわに)「せ・・・生活?」
サノ「熊鰐よ。この地の民は何を食べておる?」
熊鰐(くまわに)「海幸(うみさち)、山幸(やまさち)に恵まれとうけん(恵まれているから)、喰うには困ってないっちゃ。特に海産物はうまかよっ。」
サノ「そうか。されど、不漁の時もあるであろう?」
熊鰐(くまわに)「まあ、そういうこともあるっちゃ。仕方なかばい。」
サノ「そういう時に助かるのが、これじゃ。」
そう言うと、サノは白くて小さいものを取り出した。
熊鰐(くまわに)「これは何ね?」
サノ「米じゃ。」
稲飯(いなひ)「わしらは稲作の技術を伝えてるんや。これで、不漁に悩まされることはない。」
熊鰐(くまわに)「こ・・・こんな小さかもんで、腹一杯になると?」
稲飯(いなひ)「いっ、いや、この一粒だけで喰うんやない。これをぎょうさん(たくさん)一緒に煮てやな・・・。」
サノ「兄上、説明するより、実際に作れば、熊鰐も分かってくれましょう。」
稲飯(いなひ)「そうやな。その方が手っ取り早いな。」
イツセ「一粒が三百粒となる米は、狩猟生活以上の豊かさをもたらす食物っちゃ。不漁にも悩まされず、暮らしは安定する。我(われ)らを信じよっ!」
ミチネ「こういった生活の保障を大々的に掲(かか)げながら、大和朝廷(やまとちょうてい)は各地を統合していったんでしょうな。」
サノ「じゃが(そうだ)。ちなみに、現在の岡田宮では、中殿に、わしを祀り、右殿に熊鰐を祀っておる。熊鰐の名前には、ある役職名が冠されておる。」
日臣(ひのおみ)「県主(あがたぬし)ですな?」
サノ「じゃが(そうだ)。県主熊鰐命(あがたぬし・くまわに・のみこと)と呼ばれておる。」
比古麻(ひこま)「県主とは、地方官の名前で、任地の祭祀をおこない、朝廷への忠誠心も高く、大和朝廷の代表者として地方を治めていたという説があるみたいですね。」
熊鰐(くまわに)「同じ地方官の国造(くにのみやつこ)の下に属したと考えられちょるんですが、朝廷の直轄地(ちょっかつち)の長(おさ)として、独立した存在だったという説もあるみたいですな。」
イツセ「国造が市長で、県主は本庁より出向してきた国家公務員というところか・・・。」
ミチネ「ところで、我が君・・・。ここに一年も留まるというのであれば、わしと息子だけでも、先に進ませてはいただけませぬか?」
サノ「そうか、ミチネと比古麻には、日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)を祀る場所を探すという特命があったな・・・。」
比古麻(ひこま)「米作りも大切ですが、このまま神宝(しんぽう)を置いたままというのは、心苦しく・・・。」
サノ「よし。二人は、このまま東に向かえっ。良き地があれば、すぐに報(しら)せを送るべし!」
ミチネ・比古麻(ひこま)「御意!」×2
こうして、二人は神宝を祀る場所を探す旅に出た。
残った一行は、一年かけて、稲作を伝授したのであろう。
「古事記」の一年という記述は、そういう意味ではないだろうか。
その後、天孫一行は、再び海に出て、安芸国(あき・のくに)を目指した。
現在の広島県(ひろしまけん)西部である。
そこに到着する前、周防灘(すおうなだ)の竹島(たけしま)にサノたちは上陸したらしい。
高波(たかなみ)に遭(あ)った一行が、この島に上陸したという伝承が残っているのである。
サノは船酔いが酷(ひど)く、「かの里に上がらん。」と言って、船を付けたのだという。
まだ夜のことであった。
日臣(ひのおみ)「伝承には登場せんが、言わせてもらうっちゃ。船酔いが酷いんや。助けてほしいっちゃ。」
村人「困った時はお互い様っちゃ。ほれっ、煎じた薬草じゃ。」
薬草を飲むと、気分が回復し、感極(かんきわ)まったサノは、こう言ったという。
サノ「我が心、たいらかなり。」
村人「このことから、わしらの里のことを『たいらの里』と呼ぶようになったんじゃ。現在の山口県(やまぐちけん)周南市(しゅうなんし)平野(ひらの)のことじゃ。ちなみに、竹島は埋め立てによって、地続きになっちょるぞ。」
サノ「解説かたじけなし。」
その後、サノは「波音の聞かぬ所に・・・。」と言って、水際(みずぎわ)づたいに進み、石に腰掛けているうちに夜が明けたのだという。
村人「この地は、海上より微(かす)かな光を見た吉兆(きっちょう)の地ということで、微明(みあけ)と呼ばれちょる。二千年後は、見明になっちょるぞ。」
それから、天孫一行は近くの丘陵に登った。
そこから眺める景色の美しさに惹(ひ)かれたサノは、ここに行宮(あんぐう)(仮の御所)を建てることにしたのであった。
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