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三国志記録24

201年(建安6年)4月
曹操(47)は黄河の畔に兵を上陸させ、倉亭(そうてい)に駐屯する袁紹軍を攻撃し、これを打ち破った。

敗れた袁紹本初(えん・しょう・ほんしょ)は、帰還すると、離散した兵卒を再び収容し、背いた諸郡県を攻撃平定した。


201年(建安6年)
曹操(47)は、蔡揚(さい・よう)を劉備の拠る汝南(じょなん)に派遣したが、龔都(きょう・と)によって破られた。


201年(建安6年)9月
曹操(47)は許に帰還した。


201年(建安6年)
曹操(47)は汝南の劉備征討に向かった。

劉備は曹操自ら来ると聞くと、劉表景升(りゅう・ひょう・けいしょう)(60)の元に逃走し、龔都らは散り散りとなった。


202年(建安7年)5月
袁紹本初が発病して血を吐き死去。

末子の袁尚顕甫(えん・しょう・けんほ)が後を継ぐ。

兄の袁譚顕思(えん・たん・けんし)は車騎将軍を自称して、黎陽(れいよう)に駐屯した。


202年(建安7年)9月
曹操(48)は袁尚顕甫、袁譚顕思らを征伐し連戦した。

袁尚と袁譚は度々敗れて退却し、守りを固めた。

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