世界史人物伝 No.1
陽城
読み:よう・じょう
736(開元24年)~805(貞元21年)
姓:陽(よう)
名:城(じょう)
字(あざな):亢宗(こうそう)
性別:男
出身地:定州の北平(ほくへい:現在の河北省順平県)
唐の徳宗(とくそう)の時代の役人。
学問を好み、人望も厚く、郷里の人々は、争いごとがあると、役所ではなく、陽城に相談するほどであった。
皇帝を忠告する役目の諫議大夫(かんぎたいふ)となる。
795年(貞元十一年)、宰相の陸贄(りく・し)が裴延齢(はい・えんれい)の誹謗中傷によって失脚した際、宰相の無実を主張した。
徳宗に、誹謗中傷を信じてはいけないと忠告したが、逆に怒らせてしまい、下級役人に落とされる。
かつての門弟の薛約(せつ・やく)が、失言で流罪となった際は、別れの宴をおこなった。
そのため、陽城も、江南地方の道州(どうしゅう)の刺史(しし:県知事のような役職)として左遷された。
その後も、陽城は、己の信念を曲げなかった。
道州の人々には、背の低い者が多かったので、中央では珍しいと、毎年、男が貢物(みつぎもの)として献上されていた。
これを矮奴(わいど)と呼んだ。
陽城は、国民を奴隷にする制度を知って、衝撃を受けた。
毎年、肉親と離れ離れになる苦しみを味わっていることを悲しみ、朝廷に訴えて、これを止めるべきだと進言した。
おかげで、この制度は廃止となり、道州の人々は陽城に感謝し、多くの人が彼を慕ったという。
また、道州の人々が、苦しい生活をしていたので、税を取り立てなかったようである。
男性の減少による、労働力不足も考えられる。
しかし、ついには、税金滞納が問題となり、中央から、観察使が来ることになってしまった。
このとき、陽城は、自らを投獄して対応した。
罪は刺史に有り・・・というわけである。
こうして、道州の刺史を罷免され、故郷に戻ったようである。
805年(貞元二十一年)死去。
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