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なんと!真田幸村の子孫や家臣たちが宮城県にいた!!

歴史秘話 2010年12月07日 菊池嘉雄76歳

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 真田幸村と言ったら猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者を従え、昔の講談や紙芝居、現代の映画やテレビドラマに出てくる武将で、はるか遠方の謎めいた空想的な人物を思い浮かべるのではないでしょうか。ところが、なんと、幸村の子供たちや真田家の家臣たちが宮城県に落ち延びて生涯を終えているのです。宮城県蔵王町の曲竹まがたけ地区と矢附やづき地区が関係深いのです。これは面白い話ではありませんか。そればかりではなく、敵対した側が敵の子供たちを匿い育ててやったという、戦乱の世には珍しい人道的な行為もあったのです。
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 徳川家康が豊臣一族を滅ぼす戦には「関ケ原の役」「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」があります。冬の陣は1614年の十一月~十二月で、夏の陣は1615年の四月~五月です。その夏の陣の際、豊臣方の勇将、真田幸村は「もう大坂城はもたない。自分も討ち死にするしかない」と覚悟し、敵方である白石城主片倉小十郎重綱しげつな(後に小十郎重長しげながと改名)に、子供たちを匿ってくれるよう依頼をし、小十郎の陣へ幸村の娘である阿梅おうめと家臣穴山小助の娘を送り届けたと或る資料に書かれてあります。

そして五月七日に真田幸村は茶臼山で戦死をしてしまいます。翌八日には大阪城主豊臣秀頼と母の淀君が自害し豊臣家は滅亡してしまいます。それで阿梅は白石城へ落ちのびることになります。このとき阿梅は十二歳だったと推定されています。阿梅の他に、京都に保護されていた八歳のおかね、六歳の阿菖蒲おしょうぶ、四歳の大八、年齢名前の分からない女の子の四人と合わせて五人の子供たちを白石城に連れ帰ったそうです。

 戦の直後は残党狩りがひどく、名のある武将の男の子などは斬首されたりしたぐらいですから、幸村の子供たちも隠密裡に移送されたことでしょう。特に、家康が慌てて逃げなければならなかったほど家康の陣地に迫った幸村は、徳川にとっては癪にさわる人物で、その幸村のたった一人の男子の遺児となった大八は四歳と言えども放ってはおくわけにはいかなかったでしょう。徳川方の厳しい探索の目が光る中、京都や大坂からどのようにして白石まで来たのでしょうか。人目につかず、人目についても怪しまれずに通り抜ける方法はあったのでしょうか。そのことについて小西幸雄著「仙台真田代々記」で「おそらく幸村の子女五人は、伊達家の行列の中に匿われ、白石まで護送されたものと思われる」と小西氏は推定しています。その後、徳川幕府は幸村の遺児たちの行方を探りましたが、伊達家では虚報を流したり偽証したりして匿い続けました。例えば1624年(寛永元年)に、大八は四歳の頃、子供たちの石投げ遊びを観覧中に石が当たり死亡している、と虚報を流したり、1640年(寛永十七年)に幕府から伊達家に大八の調査が命じられた時には、幸村の叔父の孫であると、実際には存在しない人物を報告するなど偽証をしています。

 小十郎に保護された子供たちはそれぞれの道を辿ります。阿菖蒲は福島三春の田村家出身で仙台藩士田村定廣(後に片倉金兵衛と改名)の妻となり、旧登米郡石森村を与えられました。おかねは元尾張犬山城主だった石川貞清の妻となり、成人した大八は名も守信と改め、片倉の姓をもらい伊達家に召抱えられ、刈田郡の矢附村と曲竹村を拝領して屋敷を構え、また現仙台市の五橋に仙台城勤務のための屋敷があったようです。古文書によれば伊達政宗は大八に食客禄千石を与えたとあるそうです。千石は片倉小十郎の十五分の一、家臣平均の十倍くらいですから、なぜ正宗は大八をそれほど優遇をしたのか?、謎です。阿梅は小十郎重長の妻が病死したことにより、重長の後室(後妻)となりました。阿梅と大八の墓は宮城県白石市の当信寺に、幸村墓碑と阿菖蒲墓碑は同市蔵本に、その他、真田家ゆかりの家臣達の墓碑が蔵王町の矢附と曲竹にあります。なお、阿梅の墓は人の形をした珍しい形で、文字が無く梅の花の模様が彫ってあります。この形は如意輪観音座像だそうですが、どうして墓なのにこの像にしたのか、阿梅が生前に立てたのか、遺族が立てたのか、なぜ文字がないのか、謎めいた墓です。

阿 梅 の 墓
墓石は如意輪観音菩薩にょいりんかんのんぼさつの姿をしている。頭が傾いているのは思惟像しいぞうといって頭を傾けて民衆救済を思惟している姿。なんの文字も刻まれていない。


 大八は真田を名乗れないまま死んだので墓石には片倉四ノ平衛守信と刻まれています。守信の息子の代になって真田を名乗れるようになりました。ちなみに幸村の本当の名は信繁なのですが、寛文十二年成立の軍記物語「難波戦記」に幸村が使われ、この小説が大ヒットして以来、信繁ではなく幸村が普遍化してしまったようです。なぜ難波戦記で幸村が使われたのかを示す資料はないようです。
 幸村の子供たちが助けられ、この辺にいたというこの話は、この辺に生まれ育った私たちは聞いたことがありませんでした。それはこの話が巷間に伝わっていなかったからなのでしょう。ということはこの話は隠された話だったと思われます。徳川の時代が終わり、明治になってから口の端に登るようになり、平成八年に真田一族の流れをくむ小西幸雄氏が「仙台真田代々記」を著すなどにより、このところの戦国武将ブームもあって、にわかに知られるようになったようです。なお、大八(守信)の流れをくむ真田一族を仙台真田と呼び、長野県松代の真田と区別しているようです。


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 もし、大八を匿い偽証までしたことが分かれば片倉家も伊達家もお取り潰しになったことでしょう。そんな危険をおかしてまでなぜ匿い保護したのでしょうか。小十郎重長が阿梅たちを連れ帰った動機については、戦利品として、武士の情けから、以前隣同士だったから、以前同郷同職だったからなど諸説あるようですがほんとのところは分かっていないようです。また、伊達政宗も何か打算的な策略があって大八たちを庇護したのかもしれません。正宗の家臣である重長は自分の考えだけで出来ることではなく、正宗の指示に従い意向に沿っただけなのかもしれません。が、とにかく子供たちは生き延びることが出来、幸村の血筋は保たれ、それぞれ一応の立場を得て宮城県で生涯を終えることができたのですから、結果的には人道的であったと見てよいかと思います。

 敵側を皆殺しにしたり、人質にとったりする戦乱の世に、敵の子供たちを匿い続けることができたことや、お取り潰しにもあわず、共に生き延びることができたというこの史実は、謎をはらみ、ロマンに満ち、心を明るくするいい話だと思い、私はこの秘話を「阿梅物語」という題で、語りと歌と笛と琴で演奏する二十分の音楽に仕立て、平成二十年九月に公表したところ、演奏依頼が相次ぎ、宮城県内から北海道登別市まであちらこちらで11回も公演することになった次第です。

  参考にした資料
○ 小西幸雄著「仙台真田代々記」宝文堂発行
○ 城下町「白石ー白石城とその周辺ー」清水書院編集白石市文化体育振興財 団発行
○ パンフレット 「新世紀 真田サミットーしろいしの真田物語ー」白石市総務部振興課発行
○ 高子律子著「不忘の里に来た女ー真田お梅ー」自費出版
○ 読売新聞東北総局編著「白石城物語」白石市体育文化振興財団発行
○ 白石市ホームページの真田電子博物館
○ 真田幸村に関する各種インターネットホームページ
○ 平凡社大百科事典 ○Wikipedia百科事典

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