今日一日変わらぬ日 明日もあると思えばそれも良い 明日なしと思うと変わらぬか 己が変わらねば変わらぬか 感ずることもなくただただ過ぐ
まだ終わりじゃない いつしか目の前の普通になれてしまって 達成の可否や得てして得られない達成に 魂を奪われてしまっている そんなことがしたくて今まで生きてきたの これからの自分はその達成で満たされるの 今できない言い訳でしかないかもしれないけど それによって自分を殺すぐらいなら 通過点と考えて、まだ見ぬ自分の将来を 思い描こう
一人一人 同じ時を生きる それぞれ違うようで 全く同じその時を 二人ならそれは変わる 三人ならもっと変わる 四人なら… やっぱり人は多ければ多いほど たくさんの価値に囲まれて 言葉にできないたくさんの何かを 感じ生きられるんだろうな
あーしなさいとかこーしなさいとかもううんざりだよ あーしなきゃーとかこーしなきゃーとかもううんざりだよ なにが正しいか知らないなにが楽しいか知ってる 即死ーザハイロウズより 人生のテーマソングだと友人たちの間で流行った 今改めて考えても死について若さ故の短絡的な発想なのか、本質に近づこうとしていたのか分からない ただ、死について考えていたことは確か 死ぬということは生きるということに背反し 存在するということにも背反する 今私が生き、存在していることを前提として、 もし死ぬ
批評家は物事に対し徹底的に俯瞰し、不整合を指摘するが、前提、定義が不明瞭のため、 腹落ちしない ソクラテスの無知の知や、ひろゆきの「それあなたの主観ですよね」は前提、定義を曖昧にして、世を惑わすソフィストに対して一定の疑問を投げかける 誰もが知識を得て、発信者となる現代は、まさに古代ギリシャのソフィストが台頭してきた頃に重なる およそ紀元前500年、2500年もの間、科学は進歩し続けているが、そこにある人間の精神性、本質になんら変化はない 多くの事実を知り、批評することは簡
人は産まれた時、全知全能であると言う人がいた その人が何故そう思ったか 早朝頭が冴え渡っている時に 赤ん坊へ一つの問いをした 「生きている意味を教えてください」 「・・・」 「神と同じく全てを知った上で沈黙されるのですね」 「あぅあぅあー」 老いていくと子供に戻っていくと言う人がいた それは真理に近づいていく、戻っていくということ 「人はどこからきて何故産まれて、どこにいくのでしょう」 「・・・」 「お名前は」 「・・・」 認知症≠ボケ 認知症=
心と体の平安を 365日変わらずあり続けられるよう 考える