元少年Aの「絶歌」の感想:たかが「精神が崩壊しそう」になったくらいで本を出版しやがったクソ野郎だな。

最初に自分のスタンスについて明確化しておきます。

スタンス①:事件に不可解な点が多すぎるので、「少年Aの事件」として捉えていない


そのような考えに至ったのは、こちらの記事を読んだのがきっかけです。

悲惨な事実があったことは、「現実は事実」という立川談志の名言にある通り、認めていますが、「その事件を誰が起こしたか?」については、「少年Aではないのではないか?」と疑問を持っております。

実は私、いわゆる「反ワク」、「反マスク」と称されるような考え方をしており、「コロナ茶番」が始まった2019年12月06日以降、「ノーコロナワクチン、ノーマスク、ノーアルコール消毒、ノーPCR検査」で生活し、すこぶる元気な状態を維持しております。

このコロナ茶番が「メディアのバカ騒ぎ」によって作られたモノであることは自明の理ですが、その教訓により、私はメディアが騒いでいるモノについて鵜呑みにしない態度を身に付けました。

まぁ、尊敬する立川談志が自身の子どもの時の戦争体験により、マスメディアが戦争を煽り、「良い戦争」と銘打っていたものが、蓋を開ければ「悪い戦争」だったということを学び、「そのおかげで物事に対して斜に構えるようになった。」と言われていたので、自分もメディアを盲信してはいけないなと大学生の頃から思ってましたね。立川談志にとっての戦争が、自分にとってはコロナ茶番でしたね。

この少年Aの事件もまた、発生当時(1997年。私は4歳。)に「メディア」がこぞってはやし立てたことから考えるに、なかなか素直に受け入れることが出来ないというのが今の自分です。

スタンス②:少年Aの本は部分的に読んだだけ


私はこの方の記事を読んで、今回の感想を書きました。

元少年Aが書いた「絶歌」を、ぼくのノートさんが気になったところを抜粋されて記事にしたモノを私が読んだという形です。

ぼくのノートさんの記事の中には、「絶歌」が全文掲載されているリンクが張ってありました☟

けれど、私は全文を読みませんでした。

ぼくのノートさんの記事でもかなり分量があるので、それで十分だなと感じたからです。そして、コイツのクソみたいな態度をこれ以上知りたくないと思ったからです。

スタンス③:読む時に湧き上がってきた思いをそのまま書いただけ


私の「素直な感想」を書いただけです。ぼくのノートさんの記事を読んでいる最中は元少年Aに対して様々な思いを書きましたが、読み終わった後に、①にある「元少年Aが行ったのかは定かではないという立場」になりました。

ただ、私がそのような感想を持ったことは紛れもない事実ですので、そのまま掲載したいと思いますし、表現が荒くなっているところもありますが、私の「素直な感想」として読んで下さっている方には受け止めて頂けたらと思います。

追記

僕が思ってることを非常に綺麗な文体で書かれていた方がいらっしゃったので掲載👇

 彼は自身でも「過去の猟奇殺人者と同様の英雄になりたかった」と述べているように、自分のしたことに対して英雄だと思っているようであり、その思惑が文章に有り有りと主張されている。

 また、表現の限界が浮き彫りになっており、著者には申し訳ないが、池の下り等は読むのを飛ばした。「綺麗だった」と書けば良い表現を、何倍にも膨らませ必死にそれを伝えようとているのかとおもいきや、”小説家のような表現が出来る人間である”ということを主張したいのだと感じる。これはとても虫酸が走るような感情を彷彿させた。

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 基本的に文章を繋ぐ技術は事足りておらず、しかし文字書きとして機能すべく、自身が読んだ文章の中からインプットしたであろう野暮ったく陳腐な表現がとにかく多い。(昨今のライトノベル等もこの傾向にある)

 そして、自分を「モンスター」と称し、人間ではなくなった自分を描写しつつ、一般的な人間である様として過去の幼き自分を多く描くのは些か違和感である。その違和感の根源は、ある種「誇れるもの」として自身の輝きに満ちた思い出を記載しているからではないだろうか。

&

 だが、まるで自分が被害者かのような表現は一定の不愉快を通り越し、愚かさ故の愉快を感じることさえ出来る。

 自身の数奇な人生に酔いしれるような激情を今でも持っているのは確かであり、まるでファンタジー作品の中に登場する主人公のように自分を理想のキャラクターとして創造させたいがため、またそれを多くの人間に認識させ愉悦を感じるためこの本は作られたとしか思えない節がある。あるいは、己の武勇伝を後世に残したいのである。(彼のWEBサイトからも、そんな節は見られる。)

更なる追記

この詩を読んであげたいわ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう

自分があるとき
他人があり
世界がある

──────────

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

───────────

これが僕の“今日育”目標である。



以下、気になった文章を引用して、
その後に自分の感想をつらつらと綴ります。

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