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個人的芸術論


日体大の歩行のやつを見たのは小2ぐらいの時だったので、感覚的に「なんか違うな」と思うことしか出来なかった。だけど、今の自分はもう30歳になって、いろんな経験をしてきたので、その違和感の正体を言語化することが出来るようになったと思ってる。

なのでそれをここに記しておきたいなと思った。


有難いことに、👆のつぶやきで「りらこさん(https://note.com/rirako29/)」が共感のコメントをしてくださったので、

こんにちは!全く同じように感じました。

技術としてぶつからないとかは、すごいなと思いますが。みんなで同じ意見なのも、気持ち悪いです。

自分一人じゃないんだなと思い、「じゃあ、自分の思いを残しておくか」という気持ちになった。


・芸術は内から外に出すモノ


まず上記のつぶやきは、「全部一緒は気持ち悪い(https://note.com/mainichipapa/n/ne59c11dda23f)」という他人様の記事を引用したものである。

その記事を読んだ時に、歩行のやつの経験を思い出したのである。一番強い要因としてはやはり記事の題名だと思う。「全部一緒は気持ち悪い」という言葉がその経験を呼び起こす大きなトリガーとなった。

個人的にはこれまでの経験から、「芸術は内から外に出すモノ」と思っている。自分の中に伝えたいモノ、表現したいモノを認識した時が芸術の始まりだと思う。その認識したモノを自分以外の人間に示す時に使われるのが「テクニック」であり、そのテクニックの種類は数多くあるし、表現者の個性と相まって、数えきれないくらいの可能性を帯びていると思う。

なので、芸術とは「多様化していく方向に進む」というのが自分の思いである。それぞれが、独自のやり方で、芸術をしていくので、乱立していくようなイメージ。

一方、この歩行のやつは「一つにまとまること」を目標にしているように思える。歩いている人達は常に周りを気にし、グループとして求められる歩行スピード、歩行進路に沿った行動をしている。この「外側に規範があって、それに自己を沿わせようとする」行為、つまり、歩行のやつは「外から内に矢印が向いている」芸術であると自分は思う。

歩行中に、自分の歩きたい速度で、歩きたい方向(自分の中に伝えたいモノ、表現したいモノ)へ歩いた(その認識したモノを自分以外の人間に示す時に使われるのが「テクニック」)ら、その集団は崩壊してしまう。だから、集団としての規律を作り、それに個人を従わせるようにして、秩序を保っているのである。

これは自分が思っている「芸術=内から外に出す行為」とは全く逆の機序で成り立っている芸術であり、それ故に、違和感を感じてしまうのである。

自分が思う最高の芸術はジーンケリーのタップダンスである。ほぼ一人で約5分の映像を埋めることが出来るという卓越したテクニックに脱帽する。これは裏を返せば、それくらい自分の表現したいダンスで溢れかえっているということである。

トムとジェリーのジェリーとコラボし足り、ローラースケートを履いたり、マンホールのふたを足首につけたり、雨の中で踊ったり…

ジーンケリーのタップダンスに対する溢れる情熱が伝わってきて、見ているだけで元気が出てくる。


一方で、ラ・ラ・ランドのオープニングのダンスは個人的に最悪だった。歩行のやつと同じ印象である。ジーンケリーがダンスが好きという気持ちが溢れ出るような芸術を表現しているのに対して(もちろん、リハーサルを入念に行って、緻密な計画の元に遂行されていることは想像に難くないが、それでもジーンケリーのダンスが好きという個性が溢れ出ていて、その外からの規定を消し去るくらいに自分を出しているから凄いと思う)、オープニングの高速道路のシーンは、ただただ規定通りに大多数の人が踊っているだけの映像に自分は思えた。


蛇足ではあるが、ジーンケリーを崇拝している自分だけど、「パリのアメリカ人」の大勢で踊っているシーンはあんまし好きじゃないことを書いておきます。絶賛している意見を見かけることもあるが、個人的には長いだけだし、間延びして時間を埋めてるだけみたいな印象を受ける。

この記事に書いた話ではあるが、

大学の授業で、ただ淡々と与えられた90分をやり過ごす先生と、その90分の中で自分の持てる力を存分に出そうとする先生を見た時にも、後者の方が芸術だなと思った。

立川談志が言う通り、その人の個性が出せているか(内から外への方向があるか)が芸の境目だと思う。

スピッツの歌詞はその独自の高さから、芸術といっても差し支えないと思う。それに対して、西野カナの作詞法は、自分で書いた詩を知人に見せてアンケートを取るのだそう。自分の内から外に出したものに、わざわざ外の圧力をかけてしまうなんて、個人的には考えられない行為である☟


個人的にはnoteは「好きな事を、好きな時に、好きなように書く」をモットーにしているので、書きたいことがあれば連投するのは当たり前だし、思ったことをそのままの形で記すようにしている。ただそうすると、記事の質が向上していかないので、そこは自分自身が自分に対して一番厳しい目を持っておきたいなという思いがある。でも、その一方で、書き記したものは自分自身に向けて書いているという感覚が8割くらいを占めているので、やっぱり自分が好きで、自分の為に何とかしようという気にもなる。


「自分にとっての一番きつい評論家は自分自身で、自分自身の一番のファンは自分である」っていうのはめちゃくちゃ好き☟


・自分を殺したくない


別に歩行のやつを鑑賞する分には、自分の意見を好き勝手に言えるのでまだ良いが、自分が歩行のやつをするとなったら、断固としてお断りである。わざわざ自分を殺して、その集団に馴染もうなんて考えはない。

この「自分を殺す」っていう感覚は結構日本で感じることが多かった。主なものとしては、高校のスクールカースト、会社に入社してからの日々、変な規則に従うことを求められた時など。そういう外からの圧力に自分が屈して、その規則に従うことによって、自分がそのグループの歯車の一員になることが嫌だった。なので自分は、「自分を殺さない」という選択をして、自分を生かしてきたつもりである。

スクールカーストに対しては、グループに縛り付けられるの嫌だったので、自分一人で行動することを選んだ。会社での仕事に対しては、退職したり、転職したりすることで、組織の歯車になることを避けた。変な規則に対しては、例えば、ゲーテインスティテュートの「試験を受ける際にはマスクを必ず着用しろ」という愚策に対して、抗議をした☟


個人的には思春期という人目が過度に気になる時期において、グループに迎合することなく一人で生き抜いたという経験は、自分の中の大きな核になったと思うし、自分の人生において英断だったと思っている。

この考え方があるからこそ、自分は森の幼稚園が好きなのである。森の幼稚園では、ご飯の時間以外は、子ども達が自由に遊ぶことが出来る。その状況に置いて子ども達は、誰かに忖度する必要は無く、自分の気持ちを抑える必要もない。自分のありのままでぶつかっていき、故に素の自分を成長させることが出来ると思っている。

一般の幼稚園だったら、先生1人に対して子どもが25人くらいだから、どうしても先生の権威を使って、子ども達を従わせるような方向になってしまう。個人的には外からの圧力によって自分を殺すことが嫌いなので、子ども達にはそういう経験をさせたくないと思っている。己の欲せざるところ、人に施す事勿れ。


・皆が同じ意見…


上記の2つの点が、歩行のやつを見た時に感じた違和感の正体だったのだが、自分はそれ以外にも違和感を感じていた。それは、歩行のやつを見た時の、自分の周りにいた意見が一様に歩行のやつを称賛するものだったことである。

自分は小学生の低学年ながらも違和感を感じていた為、周りに自分と同じような意見を持つ人がいなくて結構驚いたのを覚えている。

この皆が同じ意見ってのはなんか嫌だなと思うところである。皆と同じだからといい気になって、そうじゃない人を攻撃するという「暴挙」に発展することがしばしば起きるからである。ユダヤしかり、戦争しかり、コロナ茶番しかり…。

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」が如く、タカが外れた集団ほど暴力的なものは無い。


この歩行のやつって、かなり日本人的なモノだと思う。「集団の輪を乱さずに、各々が気を配って、皆で1つのモノを創り上げる」ってのが、日本人に刺さるポイントではないかなと思う。

あと、1人で目立つのは恥ずかしいけど、グループの一員としてするなら、適度に目立って、恥ずかしくないみたいな感じもあるかなと思う。

個人的には、自分の能力が低いという前提に立っているので、集団の中に放り込まれると周りにいる大多数の人達の下に埋もれてしまうという恐怖心が常にある。だからこそ、自分一人の場所を探して、独り勝ちの状態をしていないと自分の存在意義が消えてしまうみたいな気持ちである。

その為には、集団と逆のことをする必要があるし、大勢の人が興味を持たないことに対して、自分は知っておく必要があると思っている。

幸いにも、自分は森の幼稚園と出会えた。森の幼稚園は教育学部の人間でも知ってる人はほとんどいないくらいのニッチな分野である。そして、自分の好きなドイツが、なんと森の幼稚園の本場であるという事実も追い風だった。

この独自性のおかげで自分はトビタテ留学ジャパンに合格できたと思っている。森の幼稚園をテーマにしたから、他の人達と比べて目立つことが出来た。森の幼稚園を選んだ時点で勝ちが確定していたので、あとは能力の低い自分をどれだけその勝ちに見合うような人であるかのように騙すかの勝負だった。

このnoteにおいても「森の幼稚園×ドイツ」というのは、結構良い組み合わせだと思っている。なので、かなりのユーザー数がいるnoteの中で埋もれずに頑張っていけるかなという思いを持っている。

~~~(追記)立川談志と太田光 芸とは、表現とは~~~



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