「将来の夢」を問うことは正しいのだろうか

子どもができて早くも5年経った。こんな時代でまだ幼稚園は始まってない、正確には年中組への進級式だけあって後は休みになってるけど、早くも娘は5歳だ。

そんな中でふと考えたことがある。タイトルのとおり「将来の夢」だ。将来の夢ってなんだろう?僕らのころは野球選手とか、サッカー選手とか、看護婦さんとか、お嫁さんとかかな。自分のことは忘れた。たぶんそんな華やかな職業的なものではなかったと思う。

厳密にいうと、将来の夢、ではないのだけど、こういう報告を見てると疑問に感じることがある。コンテクストがすべて排除された中で将来を考えるとこうなるに決まってるんだけど、これはなんの意味があるのだろう?大人がこれを見て満足するためか?もしくはなんかのマーケティングに使うためか?子供のことを思ってのランキングじゃないことは確かだろうと。

では、本当に子どもに問いかけるとき、僕はどうしたら良いんだろう?「将来の夢はなに?」と問いかけるのは、親心として聞きたいことではあるけども、それって本当に正しい問いなんだろうか?答えからなぜその夢なのか?どうしたらなれるのかを一緒に考えることに意味はあるんだろうか?いや、意味はあるけども、そもそもの問いとして間違ってるんじゃないだろうか?そこには主体としての自分しかなく、本来であれば考えるべき社会環境や個人の周辺環境が排除された状態の答えでしか無く、更に具体的でありながら本質的に抽象的な意味のない答えでしか無く、なぜもどうしたらも後付に叱らならないんじゃないだろうか?

その意味で「将来の夢はなに?」という問いかけは、間違っているとは言わないまでも、正しい問いではなさそうだし、子どもと一緒になって考えるべき道筋も導き出しづらいような感じがする。

将来の夢っていうのは「何になりたいか」ではなく「どういう世界にしたいか」であり、その上で「その世界で自身がどう在りたいか?」という問いであるべきではないだろうか?まだ自我が芽生えて程ない小さい子どもにとっては難しい問いかもしれない。自分ではなく世界を考えることは、大多数の大人にとっても難しいことだから。だから、その世界という捉える範囲に関しては、その年頃や自身が知れる状況に合わせて考えて良いと思う。そうして世界を考えるきっかけを与えながら一緒に少しづつ考える世界の範囲を大きくしていけばいい。グレタさんの演説の内容は賛否あるしここでは議論する内容ではないので置いておくとして、驚かされたのはその視点の範囲だ。もちろんその中には空想上の世界も入ってるかもしれない。しかしグレタさんは世界を捉えた上で自分がどういう世界になって欲しいかがあり、その中で自分がやるべき役目=自身の在り方やレゾンデートルを設定してそれを全うしていっているわけだ。グレタさんが有名になった国連気候アクション・サミット2019があったその時、彼女は16歳だった。日本だとまだ高校生だ。

どういう世界にしたいのか?という問いは、僕も難しい。というか、そんなに真剣に考えたことが無い。だけどその問いを発することで自分も子どもも一緒に視野を広げ視座を上げ、考えることができるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?