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旅行記Ⅳ

 ヴェネツィアを発ち、次の目的地はフィレンツェだったが、それは飛ばしてローマについて。


 ローマでは、普通地下鉄を利用していろいろ巡るのが得策だと思うのだが、僕と友人はなぜか全部徒歩で通してしまった。
 宿がある中心部から歩いて1時間ほどのところ、トラステヴェレ地区に、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会がある。ここの目玉はなんと言っても、ベルニーニ作《福者ルドヴィカ・アルベルトーニ》だ。

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 当時、この教会は工事中だった。彫刻を取り囲む空間が修復作業中の建築という、ある種開かれた状態であったことは、この作品の鑑賞体験に影響を与えたように思う。

 ベルニーニの技術は完璧だ。完璧な技術は、作品を閉ざしてしまうことがままある。例えばヴァチカンにある若きミケランジェロの完璧な《ピエタ》と、晩年の《ロンダニーニのピエタ》を比較すれば、どちらがより閉じている感覚を与えるかは一目瞭然だ。そして、あまりに完璧な作品は、見るものを拒絶する。それらは他者に見られて初めて完成する、などというようなナイーブな受動性を拒否し、これまでもこれからも決して変わらないような、「永遠」の象徴を自負しているかのようだ。

 しかし、ベルニーニにおける自己完結性は、バロック的な過剰のせいで、若きミケランジェロのそれほどは徹底していない。より劇的な身振り、これみよがしな布の彫りなどが、外部との連絡通路を開いている。彼の作品には、観者の好奇の目線に対するポケットが設えられている。

 また、工事のための足場は、教会の聖性を弱めていた。教会内部が十全な聖性を具えていればあまり気にならなかったであろう、彫刻家のエゴがより強く感じられたような気がした。バロック的過剰、そして工事中の教会、質の差こそあれ、それらはともに歪んだ真珠であり、それゆえ、自分がそこから排斥されていない感覚、その場の一部であるという感覚を持つことができた。永遠に、綻びが生じていた。

 さて、そんなことを感じながら、感動とともに教会の外に出た。するとその瞬間、友人が

「あ〜、王将行きてぇ〜」

と言った。王将、餃子の王将。たった今見ていたベルニーニの作品と、凡そ考えうる限り最もかけ離れた言葉、王将。僕は驚いて脳がバグってしまい、なにも答えることができなかった。

 教会には、避けがたい運命として、劣化や破損が待ち受けている。そこから、修復工事が当然の帰結として行われる。教会と工事という取り合わせには、いくら鉄パイプや現代的工具の数々が歴史的建築物と異和を生じさせたとしても、合理的な理由がある。しかし、教会と王将、ベルニーニと王将は、いかなる道筋を通っても決して相容れることのない組み合わせだ。デュシャンやジェフ・クーンズも真っ青である。

 その時は、僕の感動を返してくれ、と思ったりもしたが、後日訪れたヴァチカン美術館で、本当の感動は、そんなことじゃまったく失われたりしないんだ、ということを悟った。この旅では、数多くの傑作に心を動かされ、影響されたが、ヴァチカンで見たそれは、それらを確実に凌駕する影響を僕に残した。

次回に続きます。

 

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