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スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース観てきた

観てきました。

マルチバースものってなんでもアリになっちゃってリアリティラインを説得的に描くのが難しいなかで、前作『イントゥ・ザ・スパイダーバース』はアートスタイルを四方八方から引用することでマルチバースものというジャンルに相応しい混乱したリアリティラインを打ち立てた傑作でした。

で、今作はどうだったのかというと結論から言えば
前作のが好きでした。以下理由をタラタラと書きます。

前作はシナリオとマルチバースというジャンル、そしてアートスタイルが緊密に噛み合った素晴らしい作品でした。「混乱したリアリティライン」と上に書きましたが、作品自体が混乱しているわけではなく「混乱している」というスタイルがこの上なく綺麗に一つの映画としてまとめ上げられていました。

今作はその統合の上に展開されています。それゆえアートスタイルの混乱はシナリオが要求する必然性を越え、ある種のマニエリスム的な見え方、つまり技法が技法として見えてくる瞬間が前回よりも多かったように感じます。
言ってしまえばその過剰さ、綻びによって画面にヒビが入り、その向こうがわが垣間見えてしまったことが今作に乗り切れなかった理由かもしれません。

まぁ僕が感じた「向こうがわ」自体が全く見当はずれだということもありえますが、それについてちょっと考えてみたくてこの文章を書いている次第です。

マルチバースものというジャンル自体にそこまで詳しいわけではないのですがMCUの第4フェーズがマルチバース展開を大々的に打ち出していることもあり、最近はヒーロー×マルチバースというフォーマットが目立ちます。

トムホランド版のスパイダーマンが好例ですが、ヒーロー×マルチバースという形式では必然的に「あり得た救済」が軸になります。こちらの次元で死んだ彼/彼女が別の次元では生きている。可能な限り救うのだというヒーローの宿命と、全ての次元の生命を救うことはできないという運命の狭間で苦闘するわけです。

今作でもそのような状況が主人公に訪れ、主人公マイルス・モラレスは運命を脱却しようともがきます。例えばあらゆる次元でブルックリンの「警察署長」が例外なく死んでいますが、マイルスの世界では彼の父親が署長であるので、彼は例外を作るため、つまり父の死を防ぐために闘います。
しかしそうした例外は次元を崩壊させてしまう危険をはらむため、味方であるはずの他次元スパイダーたちが全力で止めに来ます。

作中ではそのような主人公の行動は「異常分子」としてレッテル貼りされてしまいます(彼だけ別次元のクモに噛まれたことにも起因する)。

ひとりの「異常分子」=「特殊」である主人公がその特殊性を維持し自らを貫き運命に抗い、周囲の人々に認められるという構造はとても勇気づけられるものであるし、『ダンボ』はじめとする同じような構造を持つ名作も枚挙にいとまがありません。

マルチバースというフォーマットは無数の「特殊」を描きえます。一つの世界では捨象せざるをえなかった存在が、マルチバースでは描けるのです。
今回登場するインド風のブルックリンだとか、前作に登場したジャパニメーション風スパイダーだとか、通常相並ぶことのない存在を無理なく(?)登場させることができます。

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民主主義が果てなき闘争によって自らの領土を拡大していくものであるなら、今作は民主主義の領地内にいるものを可能な限り全て描こうという野心を感じます。民主主義の内部では(理想的には)ありとあらゆる存在の様態が許容されます。それらを平等に扱うという理念をこの映画からは感じ取ることができました。
それは、数秒ごとに移り変わるアートスタイルからも見て取れます。少し前に見ていたスタイルを思い出せないくらい目まぐるしく変化する画面は、「標準」を設定しないという意図でしょうか。
ジャパニメーション風の女の子にとってはジャパニメーションの世界が普通なわけです。前作ではまだまだマイルスの世界から浮いていた彼女は、地の絵の変化が凄まじい今作においてはいたって自然に背景に溶け込んでいます。そこにおいては誰もが特殊でありながら誰もが特殊ではないのです。

たとえば20世紀の美術や建築におけるモダニズムが場所や歴史の拘束から抜け出し、地球上どの場所にも平等に降る太陽の光のような透明な普遍性を目指したものだと一応言うことができるとして、それに比べて『アクロス〜』が描こうとしている世界はどうかといえば、それぞれの場所、個人史も含めた歴史に翻弄されながらも懸命に生きているあらゆる存在の様態が不透明な塗りでそれぞれに主張され、併存している世界だと言えるのではないでしょうか。

で、じゃあそんな素晴らしい理念を感じられる作品になぜ僕が乗り切れなかったかと言えば、それは先に書いたアートスタイルの過剰に関係するのです。
それぞれの存在の様態がそれぞれに並び立ち、個々がその特性のゆえに降りかかる理不尽を打ち破るというメッセージとは反対のものを僕は画面から感じ取ってしまったのです。

ジャパニメーションからセックス・ピストルズ風のスタイル、印象派風、ルネサンス風という節操のないスタイルが、暴力的なまでに高いクオリティで一本の映画にまとめ上げられている。
前作では「混乱したアートスタイル」という一貫したスタイルのまとまりの良さに感動しましたが、散々書いてきたように今作のアートスタイルはより過剰に混乱しており、それをまとめるための力が前作よりも強くなったように思います。
その力の強さがゆえに「個」を重視するメッセージとは裏腹の、ある一つの普遍性に到達しようという帝国的野望めいたものを画面から感じてしまったのです。

あそこまでの混乱を混乱と見せないその凄まじい統合力に、なにか個々人の特性と相入れないものを感じてしまったというわけです。その凄まじさは先に書いたように、シナリオの必然性を越えたマニエリスム的な見え方だと言えるかもしれません。前作では混乱から生じる斥力とそれをまとめる引力とが釣り合っていたため感じなかった力が、均衡が破れたことによってこちらに伝わってきてしまったという感じです。

まとめるなら、個々が並び立つ世界を表現しようとしてありとあらゆるスタイルを採用した結果、それらをまとめる力を強大にせざるを得ず、結果一つの理想を確立しようとする「普遍」の概念に接近してしまったのではないか、というのが僕の感想です。

映画を観終わった後のマックで感想を書き始めたらこんなに長くなってしまいました。
べつに普遍が悪いというわけではなくて、帝国的野望だとしても実現する世界がみんな漏れなくハッピーならそれが1番なんですが、単純に映画の好みとしてもう少し描き方が換喩的?提喩的?象徴的な?な方が好きなんですよね。
ある個人があくまでその個を一つの特殊として存在しながらある時ふと大きなものと交差するような。前にも書きましたがアルフォンソ・キュアロンの『ROMA』なんかがまさにそういう映画だと思うのです。

マルチバースは大きなものを大きなものとして描けてしまうところが好きではないのかもしれません。そこには「喩」の入り込む余地がないように感じます。なぜならマルチバースによってあらゆる可能性が実現してしまうから。

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まぁそんなこんなで色々書きましたがとんでもなくクオリティの高い映画であることは間違いありません。未見の方は劇場でぜひ(to be continuedだったのにはマジかと思いましたが)。

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