見出し画像

記憶の種

自分がなんだかやたらと気に入ってたまに思い出しては面白いと思っている他愛無い記憶がいくつかある。

1.町民 in トルコ

14歳のころ行ったトルコの、青と金の糸が織り込まれたきれいな雑貨が売っていたお店で、「どこから来たの?」と質問されたときのこと。

ぼくはなぜか「〇〇町から」と、県名や市名ですらなく、伝わるはずのない町名を答えてしまった(というか同じ県内でも伝わる人はほぼいないだろう)。店員さんはどこだそれ…?みたいな顔でぽかんとしていたので、あ、そういうことじゃないんだとやっと気がつき「ジャパンから」と言うと、ホッとしたように「おー、ジャパン、コンニチハ」と返してくれた。
行動範囲がチャリンコで行けるところまで、という田舎の中学生らしさが爆発していて気に入っている記憶だ。

しかし、今あらためて思うのは、どこから来たのか?という質問に含まれている「どこ」の規模に対する肌感覚は未だに国ではなく、町内単位なのだ。

2.怪電話

小学生の頃、友人と妹の3人で足尾まで電車で行った。学校に歩いて行くような田舎の小学生には、電車に乗るというだけで非常に緊張感のある旅だった。
旅は順調に進みほとんど何をしたか覚えていないけど、綿密に調べておいた帰りの電車の時間に間に合わなくなりそうな瀬戸際の登り坂の光景ははっきりと目に焼き付いている。

結局、数分差で乗り遅れ、1時間に一本くらいしか来ない電車を無人の駅で待つことになった。やめておけば良いのに、怖い話をして時間を潰していた。怖い話は怖いので、3人は足尾の雰囲気も相まって、怖くなってしまった。

すると無人の駅で電話が鳴り響いた。その急な大音量にいよいよ僕ら3人は恐怖に突き落とされ、寄り添って電話が切れるのを待った。すると無事つぎの電車がやってきて、足尾から下界に降り、見慣れた風景が僕たちを安心させた。
あれだけ恐怖に震えていた友人は、家に帰るといささかぼくと妹の記憶とは違う武勇伝を彼のお母さんに語り始める(電車に乗り遅れた時、1番動揺してブーブー言っていたのに、武勇伝では狼狽える僕ら兄妹を鎮め導くリーダーになっていた)。
すると話の途中で彼のお母さんが
「駅に電話したのになんで出てくれなかったの〜」
と言った。あの恐怖の電話は息子を心配した母の愛の電話だった。

幼心に、そんなの出れるはずがないなぁと思った話。

3.きっくんだったら

ぼくは上記の友人にきっくんと呼ばれていた。小学校に入った時からよく遊んでいて、彼は「俺たち親友だよな!」と口癖のように言っていた。ぼくは当時親友を親戚の意味と勘違いしていたので、真顔で「いや親友ではないよ」と答えていた。

ともかく仲が良かったのは事実なので、よく色々な場所に自転車で出掛けたりしていた。大抵は隣の市までというような、些細なものだったが当時は冒険だった。大体ぼくの妹も一緒だった。
ある冒険の帰り道、長い下り坂があった。友人はそれをものすごい勢いで降り、ブレーキが効かなくなってフェンスに激突した。高かったテンションがみるみる下がっていき、友人はションボリと聞こえてきそうなほど元気がなくなってしまった。
すると彼は「きっくんだったらあの激突はもう泣いてたかもしれない」と言い出した。たぶんそういうことにすることで、痛みに涙が溢れる瀬戸際で耐えていたのだろう。泣く/泣かないが強さの基準であるところが小学校低学年ぽくて気に入っている話。

4.備えあれど

またまた同じ友人の話。
例のごとく妹と友人とぼくの3人で、隣の市との境にあるゴミ処理場の煙突がデカイから見に行こうといって自転車で繰り出していった。
煙突は確かに大きかったが、それだけだった。印象深いのは、帰り道に厚い氷が張っている用水路を見つけたときのこと。ぼくら3人は氷にテンションが上がって「全然割れない!」とか言いながら氷の上で跳ねていた。すると、割れた。
ぼくと妹は岸に近かったので、咄嗟に上がり、難を逃れたが、友人は逃げ遅れ完全に腰まで浸かってしまった。今まで奇声をあげながら氷の上を跳ねるほどテンションが高かったのに、ションボリと聞こえてきそうなほど元気がなくなってしまった。

友人の宅に到着し、少し元気を取り戻した彼がお母さんに武勇伝を話し、いよいよクライマックスである氷が割れて水路に落ちた場面を話すと、彼のお母さんは「え!リュックに着替えのズボン2着入れておいたのに〜!」と言った。無人駅に電話をかけてしまうほどの心配性は、もはや予言者の域に達していた。
カッコつけたい小学校低学年と、母親の保護者としての心配が絶妙に噛み合っていないのが当時からなんとなく面白かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?