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インタビュー

 スタジアム内の小さな一室でパイプ椅子に腰掛けて待っていると、ふいに背後のドアノブが回る音がして、プロ野球選手が入ってきた。
 私は瞬時に身が固くなるような圧迫感を覚えつつ、深くお辞儀をした。

「お忙しい中、すみません」

 プロ野球選手は、

「いえいえ。僕はどこに座ればいいですか?」

 と、軽く首を振って、なおざりに視線を宙へ漂わせた。
 私はテーブルを挟んで奥にあるパイプ椅子の方向に手のひらを向けて促しながら、まだ一言しか交わしていないプロ野球選手に、なんとなく仄かな好感を持った。
 私の脇をすり抜け、真向かいへと移動したプロ野球選手は、私が差し出した名刺を両手で丁寧に受け取ると、続いて私の隣に控えていたフリーライターからの名刺を私の名刺に重ねるように両手で受け取り、そのままテーブルに置いた。

「こういう雑誌をつくってまして」

 私はA5版の厚い冊子をテーブルの面に沿わせるように差し出した。
 プロ野球選手は、

「知ってますよ。有名ですからね」

 と言うと、見本誌を手に取って、パラパラとめくり、すぐにテーブルの端に置いた。どうやら、あまり関心がないらしかった。

「で、今日の取材は?」

 プロ野球選手から問われて、私は左隣のライターと目を見合わせた。
 ライターは強いとも弱いとも、激しいとも静かとも言えない眼差しで私をみつめ、目線を切ってプロ野球選手に向き直り、そして言った。

「実は今日、あなたにお聞きしたいことは何もないのです」

 沈黙が流れた。
 私は、おずおずと顎を上げ、プロ野球選手を窺った。
 プロ野球選手は私たちを見てはおらず、ただテーブル上の見本誌の表紙を眺め続けていた。その表情からは一片の感情も読み取ることはできなかった。

 それから1分余りが過ぎ、ようやくプロ野球選手は口を開いた。視線は相変わらず見本誌へと伏せられていた。

「つまり、僕に聞きたいことがないということですか?」

 私がどう答えたものか逡巡していると、傍らからライターの

「そうです」

 という言葉が聞こえてきた。
 プロ野球選手は両腕と両足を組みながら、今度は視線を天井のほうへ上げ、低くくぐもった声で

「うーん」

 と言った。
 それから少し黙考したあと、いたって当たり前の、ありふれた調子で口を開いた。

「確かに、最近、僕に質問してくる記者は一人もいませんでしたよ」

「新聞記者もですか?」

 思わず、私は口を挟んでいた。プロ野球選手は前がかりになった私の目を見ると、穏やかな苦笑をたたえ、そしてゆっくりと語り始めた。

「そうです。最近は、僕が試合で打っても打たなくても、いいグラブさばきを見せても、ただフィールドに立っていただけでも、好走塁で生還しても、ひたすら塁にたたずんでいても、試合に出ても、出ていなくても、試合終了後、記者に囲まれても、囲まれなくても、僕に質問をしてくる記者は誰もいません。ただの一人も。そりゃあ世間話のような、極めてどうでもいい話はしますよ。それはわかりますよね?」

 私はこくりと頷いた。
 恐らくプロ野球選手にとって、「打った球種は?」「これで2連勝ですね?」「打率が3割に乗りましたが?」「いい形で本拠地に帰れますね?」…そんなたぐいの記者の問いかけは、「質問」ではなく、「極めてどうでもいい話」でしかないのだ。

「僕が最後にされた質問は、『あなたにとって、野球とは何ですか?』かな。あれは5年くらい前だったと思う。僕はその質問をしてきた新米の新聞記者をベンチ裏に引っ張って、ボコボコにぶん殴ったんだった。記者は鼻からドロッとした濃い血が出ていてね。僕は、あれは鼻糞に血が絡んで、ヌルリと下りてきたんだろうと思った。そんなになるまで殴られたのに、その記者は涙を流しながら『なんで自分が殴られたのかわからない』って顔なんだ。それにまた腹が立って、『今すぐクニに帰れ!』って怒鳴った。次の日から、その記者は球場に来なくなったよ」

「今、その記者は何をしているんでしょう?」

 5年前に新米だったということは、私と同じような年代だった。

「さあね。でも、記者を辞めたってことは確かみたいだよ」

 そう言うと、プロ野球選手は右手を熊手のような形に折り曲げて、自分の指を見つめた。深爪が気になっているようだった。
 そして、プロ野球選手はライターのほうを向いた。

「『あなたにとって、野球とは何ですか?』って、聞けます?」

 しばらく黙っていたライターは、

「僕は、聞けません」

 と答え、続けた。

「僕はしがないフリーライターですから。そこまで偉くありません」

 プロ野球選手は肩を震わせるようにして笑った。

「そうか…。でも、僕にとっては、今思えばあれが最後の質問だった。僕はそれを言葉にできるほど頭は良くないし、そこまで無邪気でもない。だから僕ができることと言えば、ただ球場に来て、ユニフォームに着替えて、マッサージを受けて、アップして、バッティング練習をして、ノックを受けて、試合に出て、記者とどうでもいい話をして、ユニフォームを脱いで、シャワーを浴びて、着替えて、出待ちしているファンにサインを書いて、帰る。それだけだった。時には誰かと飲みに行ったり、女を抱いたりすることもあるけど、いつも頭にあるのは、『自分にとっての野球』だった。みんなは、あのカウントでどうだとか、左肩の開きがなんたらとか、そんな枝葉みたいなところに興味があるみたいだけど、一番肝心なところは誰も見ないようにしてる。口に出したり、文字に書いたりするのは野暮だって気がする。自分だけピント外れだったり、『浅いなこいつ』と思われるのは嫌だと思ってる。だから誰も見ようとしない。球場に来ても、誰も野球を見ていない。でも、そりゃそうだよね。それを見たい、知りたいと言ったら、鼻血が出るまでぶん殴られるんだから」

 そう言うと、プロ野球選手は一人で笑って、壁に掛かっていた時計を見た。

「じゃあ、そろそろマッサージを受けに行かなきゃ。これ、雑誌に載るの?」

「僕の独断では決められないですけど、たぶん載りません」

「はは、じゃあ、載ったら送ってよ。載らないなら、いらないからさ」

 プロ野球選手はすっと立ち上がり、また私の脇をすり抜け、ドアノブを捻った。

「ありがとうございました!」

 私とライターは深く頭を下げた。
 再び顔を上げた時には、すでにドアは閉まっていた。

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