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「わからない」をあたためる

日々生活をする中で「これなんだろう?」と思ったこと、近頃ありましたか?
ぼくはしょっちゅうあります。日々「これなんだろう?」の連続です。

たとえば仕事へ向かう車の道中、見たこともない植物が生えていたり、へんな形の雲が浮かんでいたり、山の稜線に不思議な空間がぽっかり空いていたり。

基本的には人間が作り出した物じゃないことが多いです。「これなんだろう?」は無意識の産物です。ただひとつ言えることは、「これなんだろう?」は日常を過ごす中でどこにでも転がっているものです。

これを「問い」という言葉に置き換えます。この「問い」には社会のルールやシステムの中でみんなが日々過ごしている時間の流れとは無関係の所に存在しています。「問い」はもっと緩やかで穏やかで、まるで時間がとまっているような感じです。

「問い」は「視点」です。「気づき」です。本当はどこにでも転がっているもの。たとえば人間が意識のもとで作ったアスファルトの道の、地盤の変動によって生み出されたくぼみや、経年劣化によって生み出されたサビや、雨が降って出来たグラウンドの水の通り道や。さっき言ったような自然の中にある、人間の意識ではコントロールできないものたち。

人間にとって必要なのは「答え」ではなく「問い」です。「問い」がなければ「答え」すらありません。
「問い」は意味づけや説明すら持ちません。とても曖昧模糊な存在です。

ただ今の世の中はこの「わからない」という状態をとても嫌います。わからないままでいることをとても嫌がり、早急に排除ないしは対処しようとします。

だけど人間にとって必要なことはこの「わからない」ということについて考える時間です。そう、わからないをあたためる。
まるで子供の頃のような、初めて空に浮かんでる雲を見た時のような、初めて魚が川を泳いでるのを見た時のような、新鮮な輝き。

物にはすべて名前が与えられ、意味づけがされ、ある一定の枠に収められカテゴライズされる。ぼくらも、さもそのようであるかのように認識し納得させている。その方が物事が円滑に進むから。わからない状態というのは一般的に言えば非効率的なんだと思います。

ただそれだけでは人間は窮屈なんです。元来そういうふうに出来ている。すべてが意識化された世界の中にいると窒息してしまう。

だからこそ意識のコントロールの及ばない世界に目を向けるんです。
自然には「ちゃんとする」の概念がそもそもない。無意識、気まま、勝手、あるがまま。自然はわからなさをたくさん与えてくれます。

「時間」という取り決めから解放される為にわからないをあたためる。それはたとえば踊ってみるなり、花を生けてみるなり、風景をスケッチしてみるなり、波に漂ってみるなり、一句捻ってみるなり。そこに答えはいらない。


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