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【過去】活動レポート「201710安治川トンネル」

※本レポートは2017年10月実施の活動レポートとなります。情報も2017年時点でのものとなります。


■水の都「なにわ」

 「なにわ」という地名は「浪速」と書くことがある。『日本書紀』の「神武東征伝説」には「まさに難波碕にいたるとき、奔き潮ありてはなはだ急ぎに会いぬ、よって名づけて浪速国となす。また浪華という。いま難波というは、訛れるなり」と書かれている。これをわかりやすく訳すと、「神武天皇の船団が難波碕に近づくと、そこは潮の流れが非常に速かったので「浪速国」と名付けた。また、その波が飛沫となって飛び散るのが白い花のように見えるので「浪華」と名付ける。今の時代に難波と言っているのは、それらが訛って転じたもの」ということだ。

 「なにわ」という地名が水に関連するものだということがわかったところで、大阪はしばしば「水の都」と呼ばれる。淀川の河口に位置する大阪は、その淀川が作り出す三角州の上に街が広がっている。中之島がその代表だ。江戸の八百八町、京都の八百八寺と並んで、大阪は八百八橋と表現されるほど、大阪と川は切っても切り離せない関係だ。

 大阪の港湾地域では町と町が川や運河で隔てられていることが多い。もちろん、そこに橋が架かっていればその橋を利用して町を行き来すればいいのであるが、工業地帯で河川舟運が盛んなこれらの川や運河に橋を架けることは、行き来する船舶の高さ限界を考えると困難だった。そこで、大阪市によって公営渡船を運航されることになった。

■安治川トンネルへ

 安治川においても他と同様に渡船が各地で運航された。しかし、安治川は河川舟運の重要航路のひとつで、大型の貨物船が頻繁に行き来していた。その間隙を渡船は運航するのは困難を極める。もちろん前述した理由で橋を架けることは出来ない。そこで考え出されたのが河底トンネルだ。計画されたのは昭和初期で、当時では類を見ない計画であったが、1944年9月15日に開通した。人用と自動車用が造られ、両岸ではエレベーターか階段で上り下りする形がとられた。

 太平洋戦争が終わり、1963年に安治川大橋が開通すると安治川トンネルの自動車交通量は減少した。また、一時は効率の悪かった自動車用エレベーターを廃止した上で、坂道を設けることにより、自動車がトンネルを走り抜けることが出来るようにすることも計画されたが、周辺住民が反対し頓挫した。この坂道を建設する計画を前提として、自動車用エレベーターは1977年に閉鎖されたのだが、計画が頓挫して以降もそのまま今に至るまで閉鎖されたままとなっている

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 現在、2基あるエレベーターの入り口は両方とも塞がれてしまってはいるものの、その付属設備の多くは残されている。また、安治川トンネルを歩行者用トンネルとして利用する人は今も多く、人用エレベーターは大型で自転車も載せることが出来るため、自転車でトンネルを行き来する人も絶えず見かけられた。詳しい資料が手元に無いので推測になるが、歩行者用トンネルと並行して安治川上流側の壁の向こうに現在も自動車用トンネルが遺構として残されているとされる。九条側の自動車用エレベーター入り口跡の上には、通行する自動車に対しての注意書きが残されているが解読不能の状態になっている。

 トンネルの隣には2009年に開通した阪神なんば線の橋が架かっている。橋が架けられないことが理由で渡船が生まれ、その渡船が運航出来ないことが理由で生まれた安治川トンネルの隣に今はこうして橋が架けられている。

 安治川トンネルは水の都である大阪ならではの交通産業遺構だと言えよう。当時としては他に類を見ない、日本初の沈埋トンネルとして建設されたという点では土木遺産としての価値も高く、「戦前唯一の道路用河底トンネルで、日本最初の沈埋トンネル工法によって建設された」という理由で土木学会によって選奨土木遺産に認定されている。また、自動車トンネルとしては遺構になっているが、歩行者用トンネルとしては今も現役で、その通行人数が今なお多いというのも興味深い。

近畿交通民俗学研究会
活動日 2017年10月31日
執筆日 2017年10月31日


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