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ドラえもんじゃない私のアップルパイ

土曜日。

朝6時に起きて、パンがないのでアップルパイを焼くことにする、というマリーアントワネット感。でも冷凍パイシートがあるので、楽ちん(のはず)。実は私は、ベイキングが苦手で、それは生来の多少の物事にはこだわらない性格(粉の正確な分量とか)と、お手本通りにできないという欠陥のせいだと思うのだけれど、ケーキとかスコンとかクッキーとかの成功体験が全くない。成功体験がないので、卵とバタを混ぜている時に「これでよし」という体感がわからない。この話に熱弁を振るったら、階上のお友だち(プロ級の腕前)が丁寧に丁寧に教えてくれた。だから、チョコブラウニーだけは焼ける。ジェシカのチョコブラウニーと我が家では呼ばれている。

でも、アップルパイは、生まれて、初めて。

本当は、先週のお昼間に生地から作ろうと思ったのだけれど(アメリカのお母さんが作るみたいなやつ)、あまりにも複雑そうなので、さっと靴を履いて冷凍パイシートを買いに行った。それで満足して寝かせること数日。

ググったら、(余談だけど、お菓子のレシピは私は日本語で検索する。甘さも控えめだし、何しろ量が少ない。30cmのアップルパイができても困る)富澤商店さんのレシピが出てきて、これなら私でもやれそう(たぶん)。

計ってみると、りんごが少ない(食べちゃった)ので、柘榴(たんまりある)を入れそうになるけど、かろうじて踏みとどまる。干し葡萄は少し入れる(好きだから)。と出だしからレシピ通りにできていない。

でも、要はパイシートを型に広げて、煮たりんごを詰めるだけなので、簡単で楽しい。あみあみの模様もつける。昔ミスドでこんなハンバーグみたいなのが入ったパイがあったよな、と思い出しつつ(トラガラさんが調べてくださった、テリヤキチキンパイ、1991年)。

オヴンを点けるとキッチンが暖かいので、ねこが来る。甘い匂いがする。母がお菓子を焼くのが上手だったので、私の子ども時代は、いつもこんな匂いがしていた。こういう時、私は時々「自分が選ばなかったほう」の選択について思いを巡らせる。ただ、ちょっと想像してみるだけ。

お気に入りの琺瑯の保存容器で焼いた。

気に入りのクロスと孔雀のお皿に、アップルパイを切って私が並べていると、夫(甘いものに目がない)が起きてきて、コーヒーを作ってくれる。夫が選んだのは、なんで(よりによって)そのカップ、という選択だったけれど、まあがまんすることにする。他者と暮らすとはこういうことだ、そのちぐはぐさを、でも私はどこかで愛おしいと思っている。

作家(で料理家)の高山なおみさんが以前書いてらしたのだけれど、夕方の家路で、(今日の献立に必要な)にんにくが切れているなと気がついたけれど、今日はまあなくても良いや、と買いに行かなかった。その時に「私はもう誰かのために買い物に行かなくてよいのだ」という事実に、自分が離婚をして一人を選んだことを実感したと、そう振り返っていた。とはいえ、このお話のディーテイルは忘れてしまっていて、にんにくだったか葱だったかもあやふやで、そのエッセイ自体ももう見つけられないのだけれど、私のなかに確かに異質な手触りを残した。

私はけっこう若くに結婚して(相手は変わったけど)、それからずっと切れ目なく結婚していて、一人暮らしはほとんどしたことがない。もっと若い頃、大学時代は叔母の家にお世話になって、留学時代は寮生活だし、外国で放浪生活をしたときも、(お金がなかったのもあるけれど)友だちの家を渡り歩いていた。だから、居候は得意だ。ドラえもん的な居候の才能はあると思う。ひとの家であるじの生活ペースを壊さないように、かつ自分ものびのびして暮らせるのは、まあ厚かましいんだろうな。私はパーソナルスペースが小さくて、近くに他人がいることに慣れている。

私が一人だったら、アンティークのロモノーソフのカップ(こちらも孔雀の模様)を選んだかな。食後のお昼寝をしようと、毛布を鼻まで引っ張り上げながら想像する。私による私のための私のアップルパイのテーブル。でも私一人のためだったら(甘いものが好きではない)、そもそも甘いパイは焼かないのだ。

私は時々「自分が選ばなかったほう」の選択について思いを巡らせる。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。