わたし22歳Z世代


「私はそもそも「Z世代」というのは生まれた年月で区切られるものではなく、「社会に対して目を向け、常に自分と向き合い、誰もがより良い社会を目指すべきだという〝価値観〟」で形成される「選択可能」なものなのではないかと考えている。」
竹田ダニエル 『世界と私のAtoZ』

ツイッターの新機能"For you"で見かけたのか、それともフォローしている人のリツイートで知ったのかは忘れてしまったけれど、かなり面白い。Z世代についての連載が一冊にまとまった本だ。

Z世代とは一般的に1990年代後半から2010年ごろまでの間に生まれた世代を指す。私は2000年生まれで弟は2005年、妹は2010年生まれなのでまさにドンピシャなきょうだいであろう。最近、この本とは別に日本のZ世代、特に歌舞伎町に足を運んだりアイドルやホストを応援する層を社会学的に読み解いた佐々木チワワの『「ぴえん」という病』も読んだ。自分やきょうだいといった個人としての体感と日本とアメリカがどのように異なるのかを中心に覚書を残しておく。

◎セルフラブ/セルフケア

日本ではまだまだ言及されることが少ないが、アメリカでは「メンタルヘルス」つまり精神面における健康がZ世代に大きな影響を及ぼしているとして重要なトピックとして扱われているとのことである。その理由の一つとして、曖昧で不安定な世界に生きていることが挙げられる。いつどんな時に銃乱射事件が起こるかわからない、環境破壊によって数十年後に地球で生きていられるかわからない、いつパンデミックや金融市場の大暴落が起こるかわからない、といった本当に不確定な世界しか知らないZ世代にとっては「今ここにある時間」を大切にして、自身の心身の健康を維持することに尽力することは至極真っ当なのである。

上記の感覚、「今ここにある時間を大切にする」とパンデミックによる心身の不調はまさに私(大学2年次になった年からコロナが流行したZ世代)が体験した変容であった。進路においてフレキシブルな選択(休学や社会人入学など)が難しい風潮のある日本でも、休学の選択を取る人が私の1学年上や同世代でも多く見られた。

今を生きる若者は、パンクロックの時代と異なり、社会に対して怒るのではなく不安を抱いている。だからこそメンタルケアが重要で卑近なトピックとなる。Too young to die, too fast to liveではなく、Too young to die, too late to liveなのではないか。死ぬのには早すぎる(若すぎる)のに、生き延びるには遅い。様々な問題、特に時間制限という点においては環境破壊がわかりやすいだろう。途方もないほど加速し、物心ついた頃にはほとんど取り返しが付かないほど膨れ上がっている生を左右する問題たち。

また、Z世代は大衆文化の中で消費されてきたスターやアーティスト、セレブ達がどのように精神を病み社会にそれを無視されてきたのかを具体的に知っているため、同じ失敗を繰り返してはならないという連帯感が生まれ、お互いのメンタルヘルスを気にかけ、身近な人を救うための知識を身につけるのだ。

日本でも木村花さんや三浦春馬さんの事件は記憶に新しいが、それがZ世代の中で著名人や自身のメンタルヘルスを気に掛けるという動きに繋がっているようには思えない。どちらかというとアメリカのZ世代的な価値観に親しんでいる人、つまり普段から社会構造やショービジネスなどの危険性を理解して学んでいる人々の口からのみメンタルヘルスの重要性といった視点が提示されていたように思う。

上記のセルフケアとセルフヘルプはどう違うのかについても説明がなされている。「セルフヘルプ」、つまり資本主義社会の求める自分になること(ストイックなダイエットや自己啓発本の暗記など)は今まで良いこととされてきたが、もはやその社会の歯車へのプロセスを促進する魔術は機能しないという。Victoria's SecretやBrandy Melvilleの白人至上主義的でヘロイン・シック(薬物をやっているかのようにやせ細っている)の流れを汲むルッキズムに支配されたモデルの広告登用やサイズ展開について本書で言及がなされる。それこそ、私はBrandy Melvilleのワンサイズ問題(細身の女性しか入らない服を売っているとして前時代的だと批判されている)を日本に訪れた外国人女性のTikTokで知った。日本を訪れた素直な感想を携帯の内カメラで撮って投稿しているのだが、服屋にほとんどワンサイズしか売っていない/サイズ展開が乏しいという点が挙げられ、今現在批判を受けているBrandy Melvilleのようだと伝えていた。

本書では、フェミニズムの一環として広まったボディポジティブや白人至上主義、異性愛主義などLGBTQ +のアクティビズムが活発化していく中でブランドのマーケティングやイメージ戦略もインクルーシブである必要性が増していると述べている。さらに太っていても美しい、ではなくあらゆる意味での美の称揚をやめる、そもそも全く美しくなくていいというラディカルなボディポジティブも紹介されていた。イデオロギーをも美という基準に取り込んでしまうファッション産業の軽薄さを批判する論文が現代思想ルッキズム回に載っていたが、ここまでの意識はアカデミックな人の中でもさらに限られた人が議論しているという印象で、日本のZ世代内ではほとんど共有されていない感覚だと思われる。

◎「推し」/応援の尺度

Z世代の応援したい有名人には、「アウトサイダー」として個人的な物語やメッセージを伝えているという共通点がある。メインストリームとされてきた既存の常識やステレオタイプにとらわれず常に自分が何者なのかをカルチャーやスポーツ、言葉やファッションを通して自分の意見を説明し続ける。Z世代にとっては「買い物は投票」であるのと同様に「応援は投票」であり、どのようなアーティストや作品を支持するかは自己表現や自己選択の延長にあるのだ。

この社会問題への鋭敏さの理由として、人々が信じ、伝え続けられてきた歴史認識が揺るがされていることが挙げられる。ワシントンD.C.を訪れた際に、BLM運動の高まりによって作られた"Black Lives Matter"のペイントが施された通行路を紹介してもらったことや、南北戦争の南軍将軍の名前がついた通りの名前が変更された話を聞いた。本書でも実際に歴史認識の再考によって街の景観や通りの名前が変わることを述べている。アメリカでは社会問題を自分たちと地続きの問題であると当事者意識を持つのは当然の流れと言えるだろう。

「R&Bやヒップホップ音楽を作っているのに黒人の人種差別問題に関心がなかったり、オルタナティブの精神を主張しているのに社会問題に声をあげなかったり、というように、自分たちが作っている音楽のルーツにリスペクトがないアーティストは論外だと思う。」「最低限の興味を持たないことは、音楽に対しても本質的に無関心であることを示しているようなものだ。音楽と政治、文化と歴史、個人と社会が密接につながっていて、かつその「繫がり」を強く意識した個人や作品が支持されているような現代において、そのような姿勢は単純に現在のグローバル市場に向いていない。」と著者も本書で述べている。日本ではどうだろうか。私は真っ先にサマソニの事件が浮かんだ。

King Gnuのステージでは、Måneskinのベーシスト、ヴィクトリアのニップレス姿をネタにした。マキシマム・ザ・ホルモンのステージでは、リンダリンダズのカタコトの日本語MCの真似をした。いやはや……。こういうことがあるとほんとうに暗澹たる気持ちになる。(中略)

海外から招集されたアーティストの対比からも明らかなように、ここには個人の問題ではなく、明らかにシーンとしての問題が存在している。(中略)

このような契機を経て音楽を楽しく聴けなくなる可能性が少しでもあるのなら、聴き手は心の底ではっきりと、音楽に社会性も批評性も求めている。音楽に連なった社会的トピックには無関係だと、別の世界の話だと言い切ることに耐えられないのだ。
https://leoleonni.hatenablog.com/entry/2022/08/21/064513

このブログは2022年の8月に公開され、約15,900いいね、7,000リツイートされている。他には、ヒプノシスマイクという2017年始動の男性声優による音楽が原作でキャラクターがラップをするコンテンツがある。当時私自身もハマっていたのだが、ミソジニーかつホモフォビアと取れる表現が見られた件について議論が起きていた。

元々ラップやヒップホップというのはかなりミソジニーな文化である。FSDではラッパーの女性に「おまえもいつか妻になる 妻になり母になり、そのあと『なんでお母さんあんなことしていたの』っていわれないように」と向けられたほど、女性はスタンスや地元、これまでのバトルよりもジェンダーをdisに上げられてしまう。
それが問題視され始め、ジェンダーフリーなヒップホップをと少しずつ声が上がり始めたまさにその今、こういう性差別的コンテンツが出て来た意味は、偶然というには出来すぎている。単に商業的にいいフィールドだったとしても悪趣味だ。
ヒプノシスマイクというジャンルが怖いところは、ポップでキャッチーなキャラクターや、「ラップで回復・精神干渉・防御する」というコメディチックでバカバカしい、笑ってしまうような楽しいジャンルとしてパッケージングされているところだ。twitterで検索をかけても、ヒプノシスマイクのミソジニーを指摘している人はいるにはいるがそう多くない。みんな楽しんで考察や二次創作をして盛り上っている。
https://anond.hatelabo.jp/20180720024344

この記事が出たのは2018年、私も確かそのくらいの年に読んだはずだ。そしてこの記事が拡散された後、ファンの中には自身の考えを整理したり他人と議論するためのアカウントを作る人が少なくない数存在し、中には「降りた」(コンテンツを消費するのをやめた)人もいた。著者も「Z世代」というのは生まれた年月で区切られるものではなく、「社会に対して目を向け、常に自分と向き合い、誰もがより良い社会を目指すべきだという〝価値観〟」で形成される「選択可能」なものなのではないかと考えている。」と述べているが、ここではあえて1990年代後半から2010年ごろまでの間に生まれた私の周りに絞って考える。SNSを見ていても、これらについて言及したり憤っていた人は少なかったように思えたし、リアルな生活の中でも問題視している人はあまりいない(話題に上がらない)ように感じた。SNSのフィルターバブルによって私の周囲にもこのような発言を問題視したり、アーティストや作品と社会的姿勢を一体のものと考える人が日本にも多いのではないか、と考えるがやはり現実世界は違い、自身が少数派なのだと思う機会が多く存在する。

◎自分をキュレートする

上記の「応援は投票」的価値観からも分かるように、ブランド主義的なミレニアム世代と異なり、Z世代は政治的姿勢/環境問題への取り組みなどに共鳴できるブランドからものを買ったりメンタルヘルスについて発信するインフルエンサーの指示など、自身の世界観/aesthetic(アイデンティティをファッションやインテリアのみならずライフスタイル全体で表現する)を追求し、優先する。

しかし「マイクロトレンド」と呼ばれる、無数のインフルエンサーから発信される最短2週間で変化するトレンドに追いつくためにファストファッションのサイトから大量の服を購入し自身をキュレートする人も多く、かなり矛盾している。そしてこれによる環境破壊は多くの批判を受けている。(日本でもSHEIN爆買い、とYouTubeで検索すればたくさんの動画が出てくるだろう)

これらのaesthetic、つまり政治的スタンスや環境問題、セクシュアリティやジェンダーに対する個人的な考えや向き合い方は、他人からの承認や視線ではなく「壊れつつある世界でどういう人間として生きたいのか」という本質的で内省的な視点につながる。

本書では度々Z世代の矛盾について言及される。それはZ世代の中での多様性や個人差、グラデーションといった話のみに留まらない。例えば、自身の「モノを所有したい、買いたい」という欲望と「環境破壊を止めたい」という意志、「アーティストや作品を応援したい」という欲望と「社会的不公正に加担したくない」という意志などは相反しZ世代を苦しめる。社会的関心や自己探求を一方の面に持ちながら矛盾する性質も同時に抱えているのがZ世代なのだ。

以上が主にまとめておきたいと感じたポイントであった。他にもY2Kリバイバル、人生における仕事の意味、スピリチュアリティ、ロマンティックラブイデオロギーの崩壊など個人的に興味深いトピックを紹介したかったが、他の書籍や自身の経験との関連を書いていくと途方もなく長くなりそうなのでやめておく。みんな本買って読んでください。

では!バハハ〜イ。


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