見出し画像

自分から何かを「変える」難しさをレゴ®︎シリアスプレイ®︎でくぐり抜ける

 レゴ®︎シリアスプレイ®︎メソッドで作った作品には感情が入りやすい。

 特にそれが「自分の中の何か」であり、作品のテーマが「大事にしていること」に関することであれば尚更である。

 しかし、「自分の中の何か」が、実は問題の原因だったり、自分自身の限界をつくっていることは少なくない。そのようなときは、自分が変わらなければ、状況が変わらない。

 レゴ®︎シリアスプレイ®︎のモデルのワークでも同じような困難さを感じる。

 筆者の個人的な経験として、以前に2030年の自分自身のありたい姿を参加者に作品で作らせたことがあった。その後、その作品は横に置いておいて、参加者たちで2030年の社会の姿を描くようなワークに移った。その後、2030年の社会の姿とその前に作っていた2030年の自分自身のありたい姿を重ねてみるという仕掛けだ。ほとんど全ての参加者が何らかのズレをそこに見出せるのであるが、その中で私は、表現の中にブロックを加えたり余分なものを取り除いたりできることを参加者に呼びかけて自分の姿のブラッシュアップを期待した。

 参加者は各々、目の前の社会の姿を表した作品を見ながら変更を加えた。ただし、2030年の社会に向けて自分に足りない部分を加えた参加者はいたが、何かの表現を取り除いた参加者はいなかった

 参加者が「今のままの自分ではいけない」と語っても、自分の中の要素を手放すことは本当に難しいのだ。私もある参加者に「その考えに換えて別のことを大事にすればもっと良い未来が描きやすくなるのに」と思い、遠回しに一意見として言葉を投げかけてみたが、表現を取り除くことはなかった。

 なぜ、自分についての表現から特定の部分を取り除けないのか。一つには、その部分はその人の経験(思索も含む)に基づくもので、自分の生きた時間、すなわち人生の一部になっているからだと思われる。その表現を取り除くことは自分の人生を否定することだと錯覚しやすい

 もしくは、意見の一貫性を保とうとする「一貫性の原理」と呼ばれる心理学的な特性の影響を受けているのかもしれない(以下の本を参照のこと)。

 自分の何かを捨てることには、上記のような理由によって根本的な難しさはあるのだが、そんな中でもレゴ®︎シリアスプレイ®︎には希望がある。

 しっかりと自分ごとになっている作品だからこそ、そこから崩すことは抵抗を感じるのであるが、ブロックだからこそ想像上で自分を崩すこと(シリアスプレイ)ができるのである。

 私自身も何度か体験しているが、自分のことをしっかりと表現した作品に敢えて手を入れるとき何とも言えない緊張感がある。また、それをしてみることで逆に、自らの新たな可能性が作品として見えるというHard Funな体験がそこにはある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?