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人生の最期は「終わり」ではなく、新たな世界への「門出」

人生のロウソクの火が燃え尽きる時のことを考えたことがあるだろうか。

人生いつかは炎が輝きを止める。みんな平等に。でも、自分にはまだまだ関係ないと、無視しがちだ。

自分自身の、そして愛する人たちのロウソク。その最期の瞬間に、なにを感じ、なにを思うのだろう。


人生の最期との距離感

いつ「その時」が来るのかは分からない。別れが辛いから、ずっとそんな時が訪れないでほしいと願う。でも、そういう訳にもいかない。

わたしが小さかった頃は、祖父母と同居していた。人間が老いることや亡くなることが、生活の一部で身近だった。お葬式も自宅で執り行うのが普通だった。

でも、今はわたしたち親子だけで住み、子どもたちの祖父母は遠く離れたところにいる。葬儀場や墓地に出向いて、最期のお別れをする。生活から切り離されている。

そんな子供たちにとって、人生の終焉は他人事のような、珍しいことのような感覚なのかもしれない。わたしたち大人も、まだまだ先のことだと思っていた。

いつ起こるか分からない「終わりの時」

去年、夫が癌になった。

家族中で一番たくましくて、真面目で、頑張り屋の夫。まだまだ若くてそんな病気とは無縁のはずの人。子どもたちはまだまだ幼くて、わたし一人で育てる自信も経済力もない時期。そんな時に、降って沸いたような突然の知らせ。

現実味がなくて、最初はきっと大丈夫でしょって楽観視してた。手術して悪いところを取れば治るんでしょって気楽に思ってた。

元気に手術室に向かった夫が、病室に戻ってきた時には、一気に50歳ぐらい老けたようだった。翌日退院したけど、駐車場まで歩くのもままならないほど。これは大変なことが起こったと、ようやく実感した。

転移していたから、抗がん剤治療もすることになった。きっと治ると信じていたけど、ふと気を抜くといわれのない不安がよぎる。元気だった人の弱っている姿が、わたしの心を脆くする。

「夜」の中の「光」

救いだったのは、子どもたちの変わらない笑顔。手術前までは仕事でいつも不在がちだった夫/父親が、自宅療養になったおかげで、ずっと一緒にいられるようになった。彼がいつもソコにいる。

そうして気づく。

人生の最期は、いつ起こるか分からない。
だからこそ、大切な人と時を、空間を共有できるのは奇跡。

毎日の小さなことに、幸せと感謝の気持ちが湧き上がる。一瞬一瞬を大切にしたいと思うようになった。

幸いにも、治療のおかげで回復して、今のところ普通に生活できている。経過観察中だけど、通勤もできていた。一番大変だった時のことを忘れそうになるぐらい。



そんな中、数か月続くオーストラリアの山火事。収まったと思ったら、今度はパンデミック。次から次へと天災が起きる。

再び、人生の終わりを意識する。でも今回は、恐怖や不安よりも、安心安全や希望を感じる。

一度、不安定な時期を経験したからだろうか。毎日の小さな幸せに、奇跡をしっかり感じようと決めたからだろうか。


映画「おくりびと」を観て

ちょうど映画「おくりびと」がオンデマンドで、しかも日本語だったから、家籠り中に観てみた。

人の最期にかかわる職業。一度、今住んでいる街で何かできる仕事はないかと求職サイトを覗いた時に、唯一気になった職業。

実際に働くとなったら、想像もつかないことがあるだろうけど、少しどんなことをやるんだろうと、興味があった。

銭湯の女将さんが火葬される場面。笹野高史さん演じる、火葬場の職員のセリフが、映画を観終わった後も、頭にずっと残っていた。

「死とは門をくぐるようなもんだ。門をくぐると新たな世界の始まりだ」「だからいつもいってらっしゃいと声を掛ける」

新しい世界が待っていると思うと、人生の最期を迎えるのもそう悪くない。

現世で縁を持った大切な人たちと、一緒にいられる奇跡をかみしめながら、毎日の小さな幸せに喜び、これからの【道】を楽しみながら生きる。

そして最期に、笑顔で「いってきます」と、門をくぐる。

そんなそんな人生にしたい。

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