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カフェでの一コマから連想する『世界』

ある休日のこと、家族とカフェにランチに出かけた。通されたテーブルはレジの近く。

ふと見ると、男女二人が会計の列に並んでいた。カップルなのか、友達なのか。二人の雰囲気からは分からない。

紳士か、亭主関白か

女性の手にはクレジットカード。そのカードを男性が受け取った後、レジ前が空いた。

次の瞬間、男性は財布から自分のカードを出してお支払い。財布から出す時は、女性に背を向け、こっそりと。

くだんの人は気づかず、別の店員さんとおしゃべり。彼は、何食わぬ顔でカードを彼女に返す。

その一連の流れをトーストをかじっていた夫に、ウキウキ気分で話してみた。「ロマンチックじゃない?」って。

すると、夫の反応は意外なものだった。

う~ん。僕は保守的だって思う。
『男の人が女の人を養う=支配したい』っていう意識を感じるなぁ。

それより
『女の人が支払うこと=女性のagencyを尊重する』
っていう方がいいな。

※agency = 主体性


「なるほどー、そういう考え方もあるか〜」と思ったものの、想像していた反応と違って、不意を突かれた。

それまで膨らんでいたピンクな風船が、心の中でするするーっと小さくしぼんでしまった。彼の言葉のネガティブな声色に、しぼんだ風船は色を失っていった。

単なる日常のふとした会話。なぜそんなに反応したんだろうと振り返ってみた。

夫と私は、育った場所も文化も性別も違う。だから、考えることが違うのは当たり前。それはもちろん理解していた。

でも、やっぱり一緒に心を躍らせてほしかった。自分の感じたことを同じ方向から見てほしかったのだ。

そして、なにより男性にご馳走してもらうことを素敵だと思う自分を否定されたように感じたのだ。

でも、思いなおせば、女性・男性の区別なく、その人の能力や意思を尊重する考え方ができることに尊敬の念を抱く。


育ってきた環境が違うから

オーストラリアに移住した当初、移民向けの英語学校に通っていた。クラスメイトは、夫婦で移住してきたか、こちらの人がパートナーという割合が多かった。

その中で出会った一人のクラスメイト。名前をスーラとしよう。背が低くて、かわいらしい感じの年下の女の子。

よく席が近くなるので、レッスンでグループになったり、休憩中に雑談したり、けっこう仲良くしていた。

ある校外学習の帰り、クラスのみんなと近くのフードコートで昼食。スーラと一緒に、「何がいいかなー」「どれもおいしそうだねえ」とお店を見て回っていた。食べたいものが決まったので、「わたし、あれにするねー」と目当ての店に行こうとしたら、彼女もついてきた。

一緒のお店で注文するんだと思ったが、なにも頼む様子がない。「スーラも欲しいもの買ってきなよー」と言っても、動こうとしない。

結局、わたしは食べ物の載ったトレイを持ちながら、彼女につき合って、またお店を一軒一軒回ることになった。

しかもスーラさん、なかなか決めない。子どものように、あれは何?これは何?と、わたしの腕を引っ張って連れ回す。

食べ物は冷めてくるし、お腹はすいてくるし、他の子たちは食べ始めているしで、笑顔が引きつってきて、頬骨が痛くなる。

やっとのことで、みんなのところに戻った頃には、トレイの上は冷たくなっていて、美味しさ半減。

いや、さっさと食べなかった自分の責任ですけどね。困っている人を放って、自分のしたいようにするっていうのができなかったんだよな。いい人に見られたかったんだろうな〜(遠い目)。



それから、なんだかスーラに頼られるのが苦痛に感じるようになった。自分も優柔不断だから、決められないのはしょうがないと共感する余裕がなかった。

しつこく迫られると逃げ出したくなる恋愛模様じゃないけど、少し距離を置きたかった。何か頼まれても「自分でやってみなよ〜」と自立を促すテイで、突き放してみることも多くなっていた。

でも、ある時、スーラを知らない友人に話してみたら、思いもかけない答えが返ってきた。

その子、自分で選んだ経験ないんじゃない?
全部、旦那さんにやってもらってるんじゃないかな。

だから、注文の仕方も分からないし、
一人で決めたこともあまりないかもね。

言われてみると、彼女は文化的に男性優位の国の出身だった。

もしかしたら普段は旦那さんが全部決めてくれるのかもしれない。子どもの頃から、父親や他の家族が、物事を決めてきたのかもしれない。女の人はそれに従っていればいい、というか従うということが当たり前だったのかもしれない。

想像の域は出ないが、頼る人のいない環境で、仲良くなったクラスメイトに少し寄り掛かっただけ。言葉もあまり通じない、文化も違う、夫もいない状況で、わたしは彼女にとって安心できる存在だったのかもしれない。

ただ、当時の自分にそれを受け止めるだけの器がなかった。自分の常識や価値観で、目の前の出来事をただ「見て」いた。

一番最初のカフェの話で出てきた、agency(主体性)という観点で見てみると、スーラは自分のagencyを旦那さんに預けていた。と言うより、その存在を知らず、自分で決めてもいいという意識が薄かった。だから、いざ自分のagencyを持てと言われても、戸惑うばかり。ただそれだけだとも考えられる。

世界の広さと枠の外を見る力

自分の価値観や常識をいったん横に置いて、起きたことを眺めてみると、真実が一つではないことに気づく。

カフェでの男女の行動も、夫の反応も、それぞれの価値観に従ったまで。その時の私は、ともすればスーラと同じだった。弱い女性を守る騎士。そういう男女のあり方をなかば当然のように思っていた。

そこに、夫から見慣れない構図をぽんっと示された。自分の価値観の引き出しにないもの。それを、わたし個人に対する否定と受け取り、勝手に傷ついていたのだ。

でも、どれが正しいというものでもない。それぞれが違う価値観の引き出しを持っている。ただそれだけ。スーラの常識、わたしの培ってきたもの、夫の信じていること。ただ、一つ一つが存在しているというだけ。

世界は広い。想像もできないくらいの数の価値観で溢れている。国や文化の域に留まらず、育った過程や世代、人生の経験をかけ合わせたら、ともすると世界中の人の数だけ『真実』があるのかも、と考えるのも面白い。

コロナで飛行機が飛ばなくても、リアルの接触ができなくても、今や多様性との距離は否応なしに狭まっている。拒絶し排除するという選択肢も、もちろんある。

でも、今まで世界のさまざまな価値観に触れて、その違いを肌で感じたことで、わたしは心がゆるく軽くなりつつある。育ってきた環境と異なる場所に身を置くことで、戸惑いよりも新しい世界にワクワクすることのほうが多い。

だから、その多様性ともっと親しくなりたい。否定されたと嘆くより、自分の中にある常識の枠を超えて、外側を見る力をつけていきたい。

言うは易し、行うは難し。自然にできるようになるまでには、さらに時間がかかりそうだ。でも、こうじゃなきゃダメだという硬い頭を、少しずつ少しずつ柔らかくしていこう。

その方が、きっと見える世界が広がる。

きっと、生きやすくなる。

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