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Inspiring Stories 3 / 難解な仮定法その2

Another inspiring story, The broken-window fallacy (割れ窓の寓話)に出会いました。私の反応・解釈をお話しつつ、「仮定法過去完了」の could / would の用法も確認したいと思います。

英語雑誌 The Economist (March 16th-22nd 2024) の文章を、そのまま抜粋します。省略形や仮定法が使われているので、少々難解ですが・・・(内容と文法については下で少し説明しています。)

"A shopkeeper's son smashes a window, causing a crowd to gather.  Its members tell the shopkeeper not to be angry: in fact, the broken window is a reason to celebrate, since it will create work for the glazier.  In the story, the crowd envisions the work involved in repairing the window, but not that involved in everything else which the shopkeeper could have spent his money--unseen possibilities that would have brought him greater happiness." 
(Free exchange, Anti-environmentalists, p.63) 

 The broken-window fallacy (割れ窓の寓話)は、19世紀の経済学者フレデリック・バスティアが、経済的利益について説いた話で、ざっくり言ってしまうと「破壊されたものを修理するのは、マイナスをゼロにするだけで、プラスの効果は生み出さない(かなり意訳しています!)」「目に見えないものは、実は重要な利益を生み出す可能性があり、そこに目を向けるべきである」とも解釈されるという感じでしょうか。

上の引用部分に即して、少し説明を加えると・・・

ガラスを息子に割られてしまったお店の主人は、怒りを感じているが、そこに集まった人々は、「ガラス屋に仕事を与えることになったので、逆に喜ばしいことだ」と言う。

In this story… 以下の後半部分では・・・

群衆たちの言い分は、ガラス屋の視点に立っており、お店の主人が、「修理代以外のものにお金を使えただろうこと」や「他のものにお金を使うことで、より幸せを感じられたかもしれない可能性」には視点が及んでいない。  
と書かれています。

この抜粋の前半部分を読んで、私がまず感じたのは・・・

店の主人が感じたような怒り、更には「色々面倒な仕事が増えて嫌だなぁ」といったネガティブな感情でした。
(I would be angry, like the shopkeeper.  Or I would be very frustrated about the consequences I have to deal with, such as looking for a glazier.  My time and energy would be wasted….)

その後(In fact 以下を読み)、自分が感じているネガティブな感情や被る不利益に「ハッ」としました。
 群衆の言う事も一理あるかも。「ガラスが割れたことで、ガラス屋は仕事を得ることができた」のだから。自分はなんて「自己中」だ!自分の感情にとらわれていて、相手の立場を思いやれない!と反省したのですが・・・

後半部分(In this story 以下)で、この寓話のポイントが示されると、今度も「えっ?」と心が動かされ、仮定法を用いた少々難解な箇所を何度も読み返しました。

「損失は経済効果を生み出さない」という主張は理解しました。でもそれ以上に私が読み取ったメッセージは、
「最初に感じた怒りなどの感情は、あながち間違いではない」というものでした。周りの人が色々言おうとも。
(My initial reactions, even strong negative feelings, was not so wrong! )  

「視野を広げること」「他者の立場からも物事を捉えられること」の重要性が、最近よく語られています。「自己中な」考えやネガテイブな感情・リアクションは抑えるようにと言われ続けていたり。

でも、もしかしたらそういったネガティブな感情・リアクションは、私たちが思っているより実は「正常な」もので、「他人目線」でなく、もっと「自分目線」でもいいんじゃないか!自分の思いをもう少し大切にすべきではないか?等と強く心が動かされてしまいました。

元々の主張、経済学的知見からはかけ離れたレベルの私的な感想・解釈ですよね。分かっていますが、なぜだか心に刺さってしまいました。

最後に、仮定法 に使われるcould / would の用法について軽く触れてみます。

抜粋の最後の部分、
everything else which the shopkeeper could have spent his money--unseen possibilities that would have brought him greater happiness.は、
仮定法過去完了形」で、「過去の仮定」が表現されています。

could have + 動詞の過去分詞形would have + 動詞の過去分詞形で、過去の事実とは反する仮定が表現できます。

具体的には、実際には、お店の主人はガラス修理にお金を使うことになったのですが、「もし別の何かにお金を使うことができたら(could have spent)」と述べ、
また、「別のことにお金を使うことで、お店の主人がもっと幸せになっただろう可能性があるが、そのことは推し量るしかない(unseen possibilities that would have brought)」と追加説明をしています。

I could have been different if I had given much more thought to my emotions, even negative ones.  
もう少し自分の感情に思いを向けていたら、例えそれが否定的なものであったとしても、違う自分になれていたかもね(そうしなかったから、私は変われなかったのよね)。

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