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雨天決行

「えー今日雨かあ。」
君はそう言うけれど、僕は雨が好きだ。

雨は心を落ち着かせてくれる。雨が降った日は家でゆっくり読書をする。雫が滴り落ちる音がなんとも本と相性が良い。

かといって、外にいる時に降る雨は困る。誰だって濡れるのは好きじゃない。
傘を差すだけで手の自由が縛られて、太陽が影ることで歩く意欲も無くなる。
水溜まりを踏んだ時はとことん付いてない。
家に帰るとまず濡れた靴下を脱いで洗濯かごに投げ込む。ここで不快感はおさらばだ。やっと雨から解放される。

床に残る濡れた靴下の後を通り、誰か転ばないか、あらぬ心配をする。

君は今頃家に着いたのだろうか。意外と水溜まりをジャンプして避けて僕なんかより雨を楽しんでいそうだけど。
そんな奴には失敗して転んでしまえばいい。

君にはまるで僕の昔の頃を鏡のように映しているかのように感じる。
ずっと無邪気で、何事にも積極的で、間違えながらも進んでいく。
傘を差す僕に対して、レインコートを着て走り回る君。
家で本を読む僕に対して、友達と通話をしてはしゃぐ君。

誰にでもやんちゃな過去はあるけど、大人になるにつれ、やがて落ち着く。
「丸くなったね。」と言われるのが落ち着いたね、と言われているのかつまらなくなったねと言われているのか分からない。

子どもの頃の感性をそのまま引き継げたらどれだけいいことだろう。
なぜ君はそんなにはしゃげていられるのだろう。子どもの頃の感覚をそのまま覚えているのだろうか。時々羨ましくなる。
なにかと昨今では問題を美化しようとする。多様性を謳い、「大人」であろうとする。
面白くないものに対して面白くないと言うと、「これを作った人がいるんだからそんな事を言うな」だとか「面白いと思う人を馬鹿にしている」とか、周りを伺って自分の意見を出さずにいる人がちらほらいる。
 そんな中で、君は雨が好きな僕の前で「雨は嫌いだ」と言う。
僕はそんな君が羨ましい。自分のことを第一優先にして、周りを考えない子どもの頃のように君はまず自分の意見を言う。
だが、それでいいと思う。わがままで良いと思う。人に迷惑をかけた分、人からかけられた迷惑を許してやればいい。
 そんな当たり前のことを出来てない人がどれだけいるか。全ての世界が君みたいな人でできていたらどれだけ過ごしやすいか。


「雨が上がった日には世界の欠片が落ちているんだよ。」
ある日、君と雨上がりの道を歩いていた時に僕の横でふと呟いた。
「世界の欠片?」
「足元を見てみなよ。」
そこにはたしかに鏡のように晴天の空を映し出す水溜まりがあった。
まじまじと覗き込もうとした僕はいきなり背中を押されてバランスを崩した。
僕を水溜まりに落とそうとした犯人は悪びれる様子もなく笑った。
「ね?言ったでしょ?世界の欠片が落ちてるって。」
押した罪を謝って欲しかったが、それを見れた事に感謝してひとまず僕はここを許した。

「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に」

──花の色は、すっかりあせてしまいました。むなしく長雨が降り、物思いにふけっている間に。──

小野小町という平安時代に生きた人の短歌である。
彼女は世界三大美女とも言われていた(らしい)。
平安時代の美しさの感性が今の僕と同じかは分からないが、その時代は容姿ではなく感受性や教養の深さで優劣を付けていたのではないかと思う。
この時代にも雨に対して趣きがあると考えていたのなら、少しは僕の考えと重なるところがあるかもしれない。
雨が降った日は家でゆっくり読書をするという何気ないことが、何千年も昔からあったのなら、それは美しいことだと信じてそのバトンを繋げたい。





書きすぎちゃうから一旦ここまで。
これからタイトル回収とかもして行きたい。

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