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どん兵衛に救われた日

ご飯を炊き忘れたことに気づいた夜8時。キッチンの棚からそっと、どん兵衛をとりだした。白米が好きで、ふだんはカップ麺のたぐいを食べないのだが、金曜だからだろうか、わたしはわたしに寛容だった。

お湯を注いで3分待つ。蓋をあけると湯気がゆらりと天井にのぼっていき、目の前には夕焼け空を思わせるきつねいろのおあげが現れた。ふっくらとした体が、つゆでひたひたになっている。

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ふーっと冷まして口に入れると、かつおだしと醤油の旨味がじゅわっと染みだし、そのやさしさに不意に心を刺激された。

あー、やさしい。ずるい。ずるいぞ。なんてずるい食べものだろう。

と思うと同時に、わたしの脳裏によみがえってきたのは、数年前、夫といっしょに山頂で食べたどん兵衛だった。あのときは、きつねうどんでなく天ぷらそばだったっけ。

どちらにしても、だれがなんといおうと、あれは世界でいちばんおいしいどん兵衛だと自信をもっていえる。

あらゆるものを人生に重ね合わせてしまうくせがある。その最たるものが、山登りだ。

今は控えているが、昨年までは登山好きの夫につれられ、年に4、5回は山にでかけていた。

しかしわたしは正直なところ、登山がそこまで好きではない。その理由はいたってシンプル。つらいからだ。

とりわけつらいのは、山の中腹を過ぎたあたりだと思う。足が重いし、息があがってしゃべるのもきつくなってくる。荷物を背負っているから肩や腰が痛くなることもある。

さらに追い討ちをかけてくるのが、心身ともにきついのにゴールがみえないという現実だ。今の世の中と似ている気がする(山は距離や高さがわかるだけましかもしれない)。

あるとき、とある山に登っている途中で、あまりのつらさにめげそうになった。

足はパンパン。息はハーハー。汗はダラダラ。なのに歩いても歩いても頂上がみえない。視界がひらけない。草木が生い茂る凸凹道がぐるぐると続いている。景色がほとんど変わらない。そもそも景色を楽しむ余裕すらない。夫に声をかけられても応えられない。鬱陶しさすら感じる。

登山1

もう嫌だ。やめたい。つまらない。つらいだけ。バカみたい。時間の無駄だ。

なんでこんなことしているんだろう。なんのために。

どうしてこのくらいで弱音を吐いているんだ。この意気地なしが。

やりばのない苛立ちと悔しさがとめどなく溢れてくる。

そして同時に、当時の心境のせいだろうか、歩いても歩いても続いていく山道を、なぜか人生と重ねてしまう自分がいた。

「ああ、人生も、こうして続いていくのか。つらくても一歩一歩、自分の力で歩いていくしかないのか。歩かない限り、どこにもたどりつけないのか。途方もないじゃないか」

こんなことを考えていると、ツーっと涙が頬を伝って流れはじめ、止まらなくなってしまった。その頃のわたしはくるしんでいた。心に積もっていたくるしみが登山のくるしみと相まって容量を超え、爆発してしまったらしかった。

わたしは仕事を辞めるかどうかの瀬戸際にいた。辞めても辞めなくても、いばらの道が待っているようにしか思えない、八方塞がりな状態だった。

ここに居続けても、自分のことも身近な人のこともしあわせにはできないだろう。文章を書くこともできないだろう。思い描く未来にも近づけないだろう。代わりに心と体がボロボロになって、いつか倒れてしまうだけだろう。それは容易に想像がつく。

でも、辞めたところでどうなる? 今のお前になにができる? なんの経験も実力も実績もないお前になにができる? 体力もない、人脈もないお前になにができる? 人や制度に守られてどうにか生きてきた甘ったれのお前になにができる?

登り続けたって、下りて別の山に登ったって、どこかで休憩したって、水を飲んだって、結局は自分の足で歩かなければならないんだぞ。どうせくるしいんだぞ。

足が動かなくなったり、息が切れたり、どこかを痛めたり、しんどくて泣きそうになったりするときだってあるんだぞ。天候に阻まれて引き返さなきゃいけないときだって。砂や岩に足をとられるときだって。遭難するときだって。

わたしはぐるぐると考え続けた。日常から離れてリフレッシュしするために山にやってきたはずがこれだ。たまったもんじゃない。

しかし、そんなことを考えているあいだにも、わたしは少しずつ頂上に近づいていた。

人生とはちがって、山には明確な、一点の頂上がある。あんなにも先がみえない道ばかりなのに、歩き続ければ必ずたどりつく。それは当たり前のようでいて、摩訶不思議な現実だ。わたしも弱音を吐きつつ、休みつつ、どうにかたどりつけた。

そこでわたしは、マイナス思考を一気にふりはらうほどの包容力をたずさえた、究極の食べものに遭遇することとなる。

そう、どん兵衛だ。どん兵衛という救世主があらわれたのだ。

頂上は澄んだ空気で満ちていた。ひらけていて、遠くの青い山並みが一望できる。深呼吸すると、新しい風が身体のなかを巡り、ひゅーっと駆け抜けていった。

登山4

登りきった。

その感慨は、思っていたより大きくなかった。弾けるようなよろこびよりも、ホッと安堵する気持ちのほうが強い。

「ご飯にしようか」

何枚か写真を撮ったところで、夫が登山用のガスストーブと水を入れるための小さなクッカー、それからどん兵衛を取りだした。

登山7

どん兵衛。山頂で、どん兵衛。

気圧のせいでふくらんだ赤いパッケージの写真に釘づけになった。どくんと胸が高鳴る。即席のカップ麺がこのときほど輝いてみえたことは、後にも先にも一度だってない。

冷たく透明な空気のなかで、ぼわっという音とともにストーブの炎が燃える。しばらくしてお湯が沸くと、夫が容器に注いでくれた。

手をさすりながら3分待つ。あらためて景色を眺めていると、透き通る青と白、ときどきみえる赤の連なりに吸い込まれそうになった。あれも一つひとつは葉っぱなんだ。木の根っこから水と栄養を吸収し、太陽の光を浴びて、遠くにいるちいさなわたしに生きた色を届けてくれる。

そこにはしがらみもなければ、偽りも繕いもない。ただ、あるがままの大地が広がっているのだった。

できあがったどん兵衛の感想は、もはや言葉にする必要すらないだろう。

天ぷらを噛めば噛むほどに、つゆを飲めば飲むほどに、ちいさな自信がじわじわと、静かにみなぎっていく気がした。

そうだ、わたしは登りきったんだ。あれだけ泣きべそをかきながらも、登りきったんだ。まだやれる。どんな選択をしようが、きっとやれる。

根拠もないのに、そう思わざるを得ない味だった。

人生の山では、登り続けたからといって必ずしも当初の目的地にたどりつくとは限らない。高さもいろいろ、ルートもいろいろ、かかる時間もいろいろ。「頂上」は一点じゃない。自分にとっての頂上がどこかわからないときもある。さらには頂上に行くことが最善とも限らない。しあわせとは限らない。

生きることって、どうしてこうも、賭けばっかりなんだろう。

そう思うときがしょっちゅうある。

けれどもあのどん兵衛の、つよくやさしい味を思い出すと、自分のみつけた山に、とりあえず登ってみようと思えるのだった。


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↓こちらの企画に参加しています。ひさしぶりにnoteを書くという山に登れて安堵。ありがとうございます。内容は実話。写真はこれまでに自分で撮影したものから選んで挿入しています。


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