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小説:ばあちゃんの字

「やばいなぁ」

高校1年生、初めてのテスト結果が返ってきて、僕は手元の紙を見つめた。300人中、150位。これが僕の順位だった。地元の中学校では勉強ができる方で、たいてい10位以内には入っていた。進学校であるこの高校にも、好成績で入ってきたはず、それなのに。
「私はね、31位!割と良くない??」
前の方で、女子たちが騒いでいる。自分の順位を大きな声で話しているのは、スポーツ推薦で入ってきた晴香(はるか)だ。中学校の時に、テニスで県選抜に入ったらしい。勉強ができるはずの僕が、スポーツ推薦組に負けるなんて信じられなかった。きっとあいつは天才なんだよ、天が二物を与えたんだ。そうやって心の中で言い訳する。

「母さんになんて言おうかな・・・」
テストの手応えは、悪くはなかった。だから、母さんには今日テスト結果がわかることを、正直に知らせていた。母さんがこの結果を聞いたら、なんていうだろう。お小遣い、減らされちゃうかもな。どうしようかな。家にとぼとぼと向かいながら、僕は言い訳ばかりを考えていた。

***

「それで、雪斗(ゆきと)、テストどうだったの?」
夕ご飯の支度をしている母さんが、ついに聞いてきた。今日に限って、早く帰ってきた父さんも、夕方のニュースを見ながら、こちらに耳をそばだてている気配がする。ばあちゃんは、いつもどおり静かに洗濯物を畳んでいた。
「うーん・・・」
何度もいろんなシミュレーションをしてみたけれど、結局いい言い訳は浮かばなかった。
「うーん、あんまりよくなかったよ」
「あら、珍しいわね」
ぼやっとごまかした答えだったのに、思ったよりもあっさりとした母さんの言葉にホッとすると同時に拍子抜けした。結構怒られると思ったんだけどな。父さんも深追いする様子はなかった。ご飯にするから手伝ってと言われ、食器を出したりおかずを運んだりする。いつもどおりの夕ご飯が始まったけれど、僕はなんだかスッキリしない気持ちで、黙々とご飯を噛んだ。

***

僕がスッキリとしない気持ちを抱えていても、毎日は進んでいく。次のテストこそはと思い、友達とも遊びに行かずに、まっすぐ家に帰っては勉強をするようにしていたけれど、思うようにいかない。今日も小テストでいい点が取れなくて、やる気はますますなくなっていく。
リビングのテーブルに頬をつけながら、宿題の山を見つめていたら、ばあちゃんがやってきた。
「ゆきちゃん、お茶とお菓子食べる?」
そう言いながら、ばあちゃんは僕の前に座ってお茶をすすった。僕は身体を起こして、ありがとうと言いながらお茶とお菓子に手を伸ばした。
「今の子は大変ね。たくさん勉強しなきゃならないんだねぇ」
ばあちゃんは、戦中の生まれだ。尋常小学校に通っていたそうだが、生まれつき身体が弱くて、戦争が終わってからもなかなか学校には行けなかったらしい。身体が随分良くなったあとは、家の手伝いで忙しくって、やっぱり勉強はあんまりできなかったそうだ。そのせいか、ばあちゃんの書く字はフニャフニャで、正直なところ読むのがちょっと難しい。
「ばあちゃん、勉強のことはよくわからないんだけど」
そう前置きしながら、ばあちゃんは言った。
「ちょっとだけ、背伸びしてみるのはどうだろうね」
「ちょっとだけ?」
「そう、ちょっとだけ。一度にたくさんやろうと思っても、大変で長続きしないでしょう。だから、ちょっとだけ、背伸びしてやってみるといいと思うよ」
ばあちゃんはそう言って、またお茶をすすった。僕も釣られて、お茶をすする。ばあちゃんの入れるお茶はいつも、ちょっとだけ濃くて苦い。

***

ばあちゃんに言われてから、ちょっとだけ背伸びしてみることにした。英語の宿題で3回音読をしろと言われたら4回してみる。数学で奇数番だけ解けと言われたら偶数番も解いてみる。ちょっとだけ、ちょっとだけ。ちょっとだけと思ったら、肩の力が抜けてもうちょっと頑張れる気がしてくるのだ。

ある日、ちょっとだけ頑張って解いてみた問題がどうしてもわからなくて、数学の先生に質問をしに職員室に行くと、思わぬ先客がいた。晴香だった。部活の前なのだろう、ジャージを着て、テニスラケットが入ったバッグを背負っている。
「あ、雪斗じゃん。もう終わるから」
晴香はそう言って教科書になにか書くと、先生にお礼を言って職員室を出た。僕は晴香に軽く会釈する。活発で明るくて友達の多そうな晴香は、クラスのみんなのことを名前で呼ぶ。僕にはそれがちょっとこそばゆい。
「先生、ここなんですけど・・・」
そのこそばゆさを振り払うように、僕は急いで先生に質問を始めた。

「あのさ、晴香っていつ勉強してるの?」
あの日から、職員室の前や中で晴香に合うことが多かった。彼女は決まっていつもジャージで、相変わらず部活に専念しているようだった。部活をしながら、晴香はいつ勉強をしているのだろう。僕はそれが不思議で仕方なくって、どうしても聞きたくなったのだ。
「えー、家に帰ってからちゃんとやってるよ。あとは、行き帰りの電車の中とかかな。やらなきゃできないからね」
当たり前のように晴香が答えた。そして、こう付け加える。
「テニスで勉強できないって、言い訳したくないんだよね。どうせスポーツ推薦でしょ、って言われるの、ムカつくから」
僕の胸が、ちくんと傷んだ。『スポーツ推薦組に負けるなんて・・・』、それは前回のテストのときに、僕が思ったことだったからだ。晴香は、やるべきことをやっていたからできただけなのだ。天才とか、天才じゃないとか、そういうことではなかったのだ。
「雪斗だって、勉強してるじゃん。一緒だよ」
そう言って笑う晴香の顔が眩しくて、僕はまっすぐ見れなかった。

***

ちょっとだけ背伸びする。それを守って1ヶ月、またテストの時期がやってくる。最初の科目は、数学だ。
「みんな、テスト用紙は回りましたか。では、はじめて」
先生の言葉と同時に、教室に紙をめくる音が響き渡った。僕も深呼吸してから、みんなと同じように紙をめくる。はじめの簡単な問題、ここはいつも通りできる。次はちょっとした応用問題。そういえば、前回はここで引っかかったんだっけと、用心してじっくり問題をみてみると、なんだか見覚えがある。宿題には出なかった問題に似たやつが出ていた。ちょっとだけ背伸びして解いた、それだった。そういえば、解き方にちょっとコツがあったはず。やったことあると思ったら、肩の力が抜けてスラスラと解くことができた。よし、次。一問解けたことで弾みがついたようで、ペンの進みがいつもより早い気がした。

***

テスト返しが終わって、僕は足早に家に向かっていた。
「ばあちゃん、テスト、73位だったよ!」
家に帰ると、ただいまもほどほどにばあちゃんに報告した。3桁から、2桁になった。それも確かに嬉しかったけど、やってきたことが報われた、それが1番嬉しかった。
「ゆきちゃん、よかったねぇ」
ばあちゃんはそう言って、ニコニコしながらお茶とお菓子を用意してくれた。ばあちゃんが淹れるお茶は今日もちょっと濃かったけれど、あの日のよりは苦くない。
「今日のばあちゃんの日記には、それを書くことにしようかね」
「日記?ばあちゃん、日記書いてるの?」
ばあちゃんが日記を書いていたなんて初耳だった。ばあちゃんは、ちょっと待っててねと言って、自分の部屋から厚めの本みたいなものを持ってきた。
「・・・5年日記?」
「そう、5年日記。5年分が一冊になっててね、毎日書けるんだよ。ほらね」
ばあちゃんがページをパラパラとめくる。量の多少はあれど、どのページにもあのフニャフニャの字が見えて、毎日日記を書いているのがうかがえた。
「ばあちゃん、あんまり字が上手じゃないでしょ。だから、ちょっとずつでも上手くなったらいいなぁと思って、日記を書いて練習してるんだよ」
僕はばあちゃんから日記を借りて、はじめのページを開いた。そこの1番はじめの日には、いつものばあちゃんの字よりも、もっとフニャフニャの字があった。また、日記をめくって、昨日のページを開いてみる。いつも通りフニャフニャだけど、はじめの頃よりずっとずっとしっかりした字だった。
「ばあちゃん、字、上手くなってるじゃん」
僕がばあちゃんにそういうと、ばあちゃんは照れ臭そうに、また笑った。

***
***

「晴香、どうだった?」
「雪斗は?」
「「せーの、合格!」」
晴香と僕は、高校3年生になっていた。今日はお互いの受験結果の発表の日。声を合わせて、2人して喜んだ。晴香と僕はそれぞれ第一志望の文学部と薬学部に合格したのだ。

2度目のテストの後からも、僕は、ちょっとだけ背伸びをすることを続けていた。晴香とは、職員室であった時だけじゃなく、教室でも話すようになっていて、次第にお互いが勉強のいいライバルになった。相変わらず晴香のほうが順位が良かったけれど、それでも初めてのテストの時みたいに、晴香のことを天才だなんて羨んだりしない。晴香だって、僕だって、やった分だけできているのだ。悔しいなら、またちょっとだけ背伸びをしたらいい。

進路の話が具体的になるころ、僕は晴香に進路のことを聞いてみた。晴香は英語が得意で、そういう道に進むのかなと思っていた。
「わたし、結構古典とか歴史が好きなんだよね。だから、昔の文学の勉強がしてみたいな」
思っていたのとは違う答えだった。聞けば、すでに大体の志望校も決まっているらしい。
「晴香、さすがだなぁ。僕なんて、何やりたいかもわかんないよ」
「雪斗は理数系が得意じゃん。そっちの勉強とかは?」
確かに、僕は理数系が得意で、テストでも晴香より良い点を取ることが多かった。それもありかもなぁと、呟くと、晴香はうんうんと力強く頷く。
「それにさ、こうやって私に聞くってことは、考え始めてるってことでしょ?なら、雪斗もさすがだよ」
晴香の言葉はいつも上手に僕を励ましてくれる。相変わらず、笑顔の晴香は眩しくて、僕は照れくさくなった。

***

「雪斗、行くわよー!」
玄関から母さんの言葉が聞こえる。今日は僕の引っ越しの日だ。入学式まであと1週間。僕は今日から、一人暮らしを始める。
「寂しくなるねぇ」
ばあちゃんが玄関まで見送りに来てくれた。
「ゆきちゃん、これ、ちょっとだけど」
ばあちゃんの手には小さなポチ袋が握られていた。
「新しくできる友達と、美味しいものでも食べてね」
ありがとうと伝えて、僕は車に乗り込む。実家から一人暮らしをする街までは、車で大体3時間。すぐには帰れないけど、帰りたくなったらいつでも帰れる。そんな距離だった。
「ばあちゃん、またね」
ばあちゃんに手を振りながら、父さんと母さんと引っ越し先に向かった。

引っ越しといっても、家具や家電は直接引っ越し先に届くから、洋服や本、日用品なんかを運ぶ気楽なものだった。引っ越しが終わって、父さんと母さんは家に帰っていった。一人暮らしの初めての夜に心細さを感じながら、ふと思い出してばあちゃんからもらったポチ袋を開く。中には折り目をつけたばかりの一万円札。それと、小さな紙が入っているのが見えた。

『ちょっとだけね』

相変わらずフニャフニャで、前よりも読みやすくなったばあちゃんの字がそこにはあった。また、ちょっとだけ頑張るか。ばあちゃんが背中を押してくれる気がして、僕の心はあったかくなった。

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