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「僕」の使い分けと共存

画面の向こうの僕は、手前味噌ながら非常に感じがいい。自分でも驚くくらいに。

ビデオ会議をするとき、顔を映すことがときどきある。その時の僕は終始感じのいい笑顔で参加していることが多い。自分なのに他人を見ているみたいで、なんだか複雑な気分だ。なぜなら、ビデオを切ったあとの僕は、きっとつまらなさそうな顔をしているから。最近の仕事がちょっと苦手な分野だからかな、と言い訳してみる。

会議の時の僕、一人で仕事をしているときの僕、同僚としての僕、友達としての僕、婿としての僕、息子としての僕、父としての僕、夫としての僕、そして一人の僕。自分の中にはいろいろな僕がいて、どの僕が本当の僕なのかわからなくなる。そんなとき、僕は平野啓一郎さんの「私とは何か」を思い出す。昔に読んだ本なので、細かい内容を忘れてしまったが、分人主義、僕の中には上に挙げたようにいろいろな立場の僕がいて、そのいろいろな僕の集合体が僕なのだ。という考え方を記した本である。

会議の僕の感じがいいのは、きっとそれがコミュニケーションの潤滑油になると知っているから。一人で仕事をしている僕が不愛想なのは、仕事に集中しようとしているから(だと願っている)。父としての僕がひょうきんなのは、息子に笑ってほしいから。夫としての僕が気分屋なのは、君に心を許しているから。そう思うと、それぞれの僕が別人なのは納得がいくし、どの僕も僕らしくていいんだと思える。

ちょっと毛色の違う意見として、「北欧、暮らしの道具店」の佐藤店長が「チャポ行こ」の第63夜で話していた、仕事とプライベートのバランスのとり方についても結構参考になった。ついつい、仕事とプライベートというのは切り離したいと考えがちだけれども、仕事のことずっと考えてることって悪くないんじゃないか。「Work Life Mix」という言葉に救われたんだ。というものだ。個別の人格とは考えず、ただ切り分けないことに罪悪感を覚えない。家族のことをしながら、仕事のことを考えたっていい。バランスをとるというよりは、まぜていい塩梅にしていく。

普段は佐藤店長の考えのほうがしっくりくることが多い。でも、時々平野さんの言葉も身に染みる。「僕」というものも変わりながら生きているだな、と思うのである。

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