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小説|なまえ-ふたかけ



***杏果

「私は葡萄畑のお手伝いが結構好きです。
ワインの味はよくわからないけれど、秋になるとその身いっぱいに甘い蜜を抱えた葡萄が大好きで、ワイナリーの娘にしては珍しく飽きもせずに葡萄を眺め、収穫の時期になれば大喜びでその粒たちを頬張ります。
中学生になった今も、部活には入らないで好んで家の手伝いをします。
お父さんは学生を楽しめっていうけど、それなりに楽しんでいるし、葡萄畑は私の憩いの場所なのです。
私はお母さんに聞いた葡萄の精の話を信じています。
皆さんが信じるかは別ですが、とても好きなお話なので紹介します。

葡萄畑にはたまに葡萄の精が宿っているところがあります。
ここでいう葡萄の精とは、私たちが納得しやすいように呼んでいるだけでその実、それが一体何なのかということは誰にもわかりません。
葡萄の精は畑に恵みをもたらします。
その畑を愛する人を愛し、守ると言われています。私の家には葡萄の精が宿るという葡萄の木が一つあり、そこで取れた葡萄は本当に美味しいのです。
ただ、葡萄の精に近づきすぎると、自分の生気を吸われてしまうとも伝えられています。
また、葡萄の精を見てはいけないとも言います。葡萄が果実をつける前の夏の夜は、葡萄の精も一生懸命仕事をしているようで、夜の畑に入るなと昔から言われてきました。
だから誰も葡萄の精を見たことはないと思います。
しかし、葡萄の精が宿った年にはきちんと証を残してくれるのです。
房の中に1粒、海の色のような透き通ったブルーの果実が混ざる時が、葡萄の精が宿った年の証です。毎年宿るとは限りませんが、その年は必ず美味しいワインができると言います。
うちでは、その木に最初に葡萄がなると、お祝いのパーティーをします。
ボジョレヌーボー並みの騒ぎです。私の中で、大イベントであり、至福の時です。
今年は見事聖なる実がついたので皆さんもぜひパーティーに来てください。」


「芝さん、素敵なお話をありがとう。お家の宣伝も兼ねてさすがです。」
伊盧夫先生は優しくそう言ってくれたが、前の高橋がクスクス笑っているのがわかったので椅子の下から蹴飛ばしてやった。

「杏果ちゃん、そのパーティーって行ってもいいの?」鈴菜ちゃんは先月引っ越してきたばかりの子だけど、可愛くて優しくて、人見知りしていたけどすぐに仲良くなった。
「え、来てきて。本当に美味しいの。それに、他にも美味しいものたくさんお母さんが用意してくれるし、その日だけはちょっとだけワインを飲ませてくれるんだよ。」
東京から来たという鈴菜ちゃんは本当に美人で大人っぽい。
ぜひうちにも来てもらいたい、東京にはない葡萄畑を見せてあげたい。

「今度の土曜日にパーティーだから、桜広場の桜の木の下に3時でいい?迎えに行くね。」

「ありがとう。何か持って行ったほうがいいかな。」
「ううん、何もいらないよ、腹ペコで来てね。」
鈴菜ちゃんは照れ笑いしている。
高橋がこっちを見ていたけど、お前は呼んでないぞと言ってやった。

 お母さんに鈴菜ちゃんが来ることを伝えると大いに喜んだ。
私はお母さんの料理の手伝いをするのも好きだ。私のお気に入りは葡萄のフルーツサンドと、コンポートを凍らせた葡萄アイスだ。
簡単な料理は畑の近くでできるように、キッチン小屋のようなところがあって、そこでよくお母さんと料理をする。
この場所は私にとってとっときの場所でみんなに自慢できる最高の居心地なのだ。
摂ってきた葡萄の皮をむくのは私の特技となっている。コンポートを作る時は、鍋に水と砂糖、蜂蜜と葡萄の皮を入れて煮立てる。
あまあい香りが小屋中に広がり、そして畑にも漏れ出していく。
その鍋にうちの赤ワインと葡萄、レモンを絞った汁を入れる。
分量はいつも目分量だ。
出来上がったコンポートは何にでもなれる。
そのまま食べたって美味しいし、私は冷凍庫に入れてカチコチになった冷たいアイスの実にするのが大好きだ。
コンポートアイスができると、私はいつもこっそり畑に行って葡萄の精が宿る聖なる木のしたに一粒埋める。
これは私が密かに始めた豊作を願う儀式である。

私がお母さんから葡萄の精の話を聞いた時、どれだけこの葡萄畑が素敵な空間に写ったことか。
そんな神秘があるとは思わなかった。
けれど本当にブルーの実が稀につくし、それはもう言葉じゃ伝えられないくらい美しくて美味しいのだ。

 葡萄の話を聞いたのは小学校1年生の時だった。
1学期が終わり、今日から夏休み。
学校から帰って、お父さんに遊んでもらおうと探しに畑に来た。うちの葡萄畑は桜広場の横にある。
桜広場と葡萄畑の土地には段差があり、子供にとっては少し高いけど飛び降りられなくもない高さだ。その境の近くにある畑の端の木がそれであった。
畑をぐるうっと見てもお父さんは居そうになかったので桜広場の方に遊びに行こうと向かったのだ。なんともなしにその木の下で座って、持ってきた水筒の水を飲んでいた。

頭上の木にとっても綺麗なビー玉がある、そう思った。
これは大発見だと思ってすぐに家に帰ってお父さんに伝えなきゃと思った。
だけど目を離したらもう見つけられなくなりそうで、幻だと言われて、なかったことになってしまいそうで、私は目が離せず、その場を離れることができなかった。
いつの間にか眠ってしまったのだろう、もう日が落ちる頃に、お母さんに起こされた。
周りにはお父さんやおじいちゃんもいてひどくみんなを心配させてしまったみたいだ。
「ビー玉、ビー玉…」と言いながら睡魔に襲われながらそのまま誰かにおんぶされていかれたのを覚えている。

次の日、朝早く目が覚めて、お父さんとお母さんに急いでビー玉の実のことを伝えに行った。

もう消えているかもしれない、もう色が変わってしまっているかもしれない。

5時前であったけれど、お父さんもお母さんも話を聞いて畑までついてきてくれた。
そしてその綺麗な実はまだちゃんとそこにあったのだ。

「杏果は昨日これを見つけたんだね。これは大発見で、運命の出会いだよ。」
お父さんは優しく言った。
「お父さんもお義父さん、つまり杏果のおじいちゃんから聞いた話なんだけどね、こういう実がなるのをずっと待っていたんだよ。」
隣でお母さんが涙ぐんでいる。
「この実、どうするの?」
高値で売られてしまうんだろうか。
幼いながらに現実的な心配と恐怖があった。
顔から不安を読み取ったのだろう、お母さんは言った。
「そんなことしないわ。杏果、食べていいよ。」
「えっ。」予想外の返事にびっくりしたのは私だった。
「食べちゃっていいの?一粒しかないんだよ。」
これはとても大きな発見ではないのか、いくら第一発見者だからといってこの体に収めてしまっていいのか。
「お母さんね、おじいちゃんから聞いていたの。杏果からするとひいおじいちゃんね。葡萄の精のお話を。この辺にはたくさんの葡萄畑があるでしょう?おじいちゃんは葡萄の精が宿る畑がいい畑だって言っていたの。だけどお父さんとお母さんも見たことがなくて、ものの例えだと思っていたわ。でもここにちゃんと出来たから、ちゃんとここにあるから、本当だったのね。この実は杏果にあげる。お父さんとお母さんはワイン作りを一層頑張らなきゃいけないわ。」

そう言ってお母さんはそのビー玉のついた一房を取り、ビー玉みたいな綺麗な実を一つ取って私の口にポイと入れてしまった。

その時の驚きと感動といったら、、、!
同じ葡萄であるのに今まで食べたどの葡萄とも違った。その実に詰まった甘い果汁が一瞬にして全身に行き渡ったかのようだった。


あの時の感動は毎年実が成る季節に思い出す。忘れないように、思い出していると言ってもいい。

葡萄アイスの実を木の下に植えて、桜広場へと向かう。

鈴菜ちゃんはもうそこにいた。
「お待たせしちゃった。行こう。」
鈴菜ちゃんはまだ遠慮がちににこっと笑って歩き出す。

家に戻ると、まだパーティーの準備中でばたばたしていた。
私は鈴菜ちゃんとキッチン小屋で葡萄アイスを出して食べ始めた。
「なにこれおいしい。」
顔をほころばせて美味しそうに食べてくれた。だけど少し顔色が悪い。
「鈴菜ちゃんちょっと元気なさそうだけど大丈夫?」
「うん、大丈夫。これ、本当においしいね。」
そこに、お母さんが来た。
「お待たせ〜。準備落ち着いてきたからリビングおいで。鈴菜ちゃんいらっしゃい。」
「初めまして。橘鈴菜と言います。今日はお邪魔します。」
お母さんは鈴菜ちゃんを見て、気のせいか少し驚いたように見えた。

私たちがリビングに行くともうみんな集まっていた。そこには高橋もいる。
高橋の家はうちのワイナリーの取引先でもあるので、パーティーを開くときはいつも呼ぶ。
ただ、お母さん同士の仲が良くて、高橋もくっついてくるのだ。
「呼んでないのになんで来てるのよ。」
「うっせーな、連れてこられたんだよ。」
そのやりとりに双方の母にひと睨みされる。
「杏果ちゃんと高橋君、おうち同士も仲いいんだね。」
鈴菜ちゃんは嬉しそうにのんびりそんなことを言う。


「え〜、お待たせしました。というより十七時から開始と早いスタートだと思われているかもしれませんが、少しでも楽しい時間をみなさんと共有したいと思い準備を進めさせていただきました。今年もいい葡萄が収穫でき、みなさんに提供できることを心より感謝いたします。皆様には日々の感謝とともに・・・」

「お前の父ちゃん相変わらず話がなげえな。」

「それは同感する」
お父さんは緊張しいで人前に出るのが苦手な割に、話し始めると話が止まらないのだ。
本人曰く、緊張のしすぎで何を話しているのかわかってないとのことだけど、特に何も知らなければ陽気で話し上後なおじさんに見えるから不思議だ。
「・・・と、長くなってしまいましたが皆様グラスはお持ちでしょうか?
それでは!今年もヌーヴォーを祝して!乾杯!」

わああっとそれぞれの会話が始まり、一気に賑やかになる。三十人足らずだが、家にこれだけの人が集まるのはこの季節、このパーティーの時だけだ。
「鈴菜ちゃん、あっちに私お気に入りのフルーツサンドあるから取ってこよう。」
「毎年こんなに賑やかなの?」フルーツサンドを頬張りながら聞かれた。
「そうだね、なんだかんだお父さんが仲のいい取引先の人とかも呼んだりしてこのくらいの人数になるかなあ。」
「高橋君も毎年来るの?」
「そうなの、呼んでないのにね。」
また、鈴菜ちゃんはクスッと笑う。
「でも仲いい風にしか見えないよ。私も昔幼馴染が居たんだけどね、いっつも喧嘩してたんだよね。」
「昔?」
「あ、いや、転校する前ってこと。東京で。」
「そうだったんだー。鈴菜ちゃんから東京の時の話聞くの初めてだね。」
「そうかも。杏果ちゃんと高橋君見てたら思わず思い出しちゃったよ。」
そういった鈴菜ちゃんは少し寂しそうにも見えた。そうだよね、引っ越してきたってことは別れた友達がいっぱいいるんだよね。
「高橋とも喋っておいでよ、あいつ、悪い奴じゃないよ。鈴菜ちゃんかわいいし、仲良くなってくれたらあいつも嬉しいと思う。」
「杏果ちゃんが言うなら・・・。」
「幼馴染の私が言うんだから大丈夫だって。」
鈴菜ちゃんの背中をぽんと押す。
「私、少しお母さん手伝ってくる。」
キッチンの方へ向かったけど、お母さんはいなかった。どうしたんだろうと思ってうろうろしていると、玄関の方から幸来さん、呼ばれている声がする。廊下から覗いてみると、新しい取引先の営業の人だろうか、熱心に話していた。と、お母さんが私に気づき、何か言ってこっちに来た。
「鈴菜ちゃんは?」
「高橋と喋ってると思う。」
「そっかあ、料理とかなんか言ってた?」
「すっごく美味しいって、いっぱい食べてくれたよ。」
「よかった〜。」
「さっき喋ってた人誰?」
「あ〜あれね、大学の後輩なの。卸売業者で働き始めたみたいでうちのワインを出してくれないかって。」
「いいじゃん。お父さんに言いなよ。」
「いいのいいの。うちの小さなワイナリーでこれ以上出荷するの大変だから。葡萄の精の秘密もあるし。」
そう言ってウィンクしたお母さんは少し疲れているようにも見える。うちのワイナリーはお母さんのおじいちゃんが始めたもので、お父さんは婿入りだから、本業はお父さんがやっているのにもかかわらず、お母さんに営業の話が多く入ることを知っている。
「今日は片付け手伝うからね。」
「頼もしいわ。」
そのあと、お母さんはお父さんと挨拶回りを始めたので私はまたリビングの端っこで葡萄アイスを食べ始めた。

そうだ、鈴菜ちゃんはどこだろう。
高橋と喋って来なよっていい加減な言い方だったかもしれない。
でも多分高橋は鈴菜ちゃんのこと好きだろうなと思ったから、良かれと思ったのだが、、、。
お腹壊すんじゃないかっていうくらい葡萄アイスを食べたあと部屋を見回したけど、高橋も鈴菜ちゃんもいなかった。
なんとなく葡萄畑の方に行ってみる。
葡萄畑はずっとここにある。
どこにも行かない。
どこにも行かない安心感が好きなのだろうか。
誰かに置いていかれるようなことがあったわけではないけれど。
聖なる木へ向かう。
そこには、、、。

つづく

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