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小説|なまえ-みかけ


***幸来

おじいちゃんが言っていた話はずっと覚えている。病院のベッドでどうして私にその話を残してくれたのだろう。
おじいちゃんは遠いところに行ってしまった。
お見舞いに行くといつも遠い目をしていて、おじいちゃんはそこへ連れて行かれてしまったのかもしれない。

昔、葡萄畑で不思議なことがあったのだという。
おじいちゃんと幼馴染が遊んでいた時に今の桜広場と葡萄畑の間に謎の穴ができたという。

そこに落ちそうになったのはその幼馴染の弟だったが、なんと助かったのは葡萄の蔓のおかげ。
あんなに細い蔓なのにしっかりと体に巻き付いていたという。
その弟を引き上げたのはおじいちゃんのお兄さん。私は一人っ子だから、兄弟がいるって想像つかないけど、おじいちゃんはそのお兄さんのことが大好きだったみたい。
おじいちゃんはその蔓を下ろした葡萄の木を「聖なる木」と呼んだ。
葡萄にあの美しい実が成ったのは、お兄さんとその奥さんが消えてしまってからだという。
おじいちゃんはこれが二人からの贈り物だと思ったらしい。
夢だったワイナリーを立ち上げ、何かにとりつかれたようにこの葡萄畑を愛していた。

おじいちゃんが亡くなった時、聖なる木にたった一粒、あの実がなっていた。
私はそれをこっそり食べた。
そのあと、お父さんがワイナリーを続けている間、聖なる木にあの綺麗な実がつくことは一度もなかった。
私がこっそり食べてしまったのがダメだったのか。それともあれ自体が夢だったのか。
あれはおじいちゃんからの贈り物でそれっきりなのか。
黙って食べてしまったことを、その罪悪感を正当化しながら少しずつ忘れようとしていた。
だけど杏果がまた見つけた。

あれから一度も見たことのない美しい葡萄。
ああ、本当にあったんだと。夢ではなかったと。このメカニズムはなんなのだろう。
謎の穴も、もしかして現れる日が来るのか、、。

この葡萄畑は私にとって一種の檻である。
おじいちゃんから聞いた話はただのお伽話のようだけど、この葡萄畑を守ってくれよ、という遺言のようにも感じる。
その美しい実を食べてしまったその時から、ここを守るのは使命だと思った。
杏果にはこの葡萄畑がどんな風に写っているのだろう。
聖なる木の下で眠っていた杏果は、ついにあの実を見つけてしまったのだ。
今回は大事にしてあげなければ。
杏果の思いを大切にしてあげなければ。
すやすや眠る杏果を負ぶって、そう思った。
この子が大切にしようとしているこのお伽話を、現実の中で本物として大切にしてあげなければいけない、と。


そして、杏果は橘鈴菜という子を連れてきた。
あの子は、、おじいちゃんが見せてくれた早乙女スズにそっくりだった。歳をとっていないあの子そのもの、、、。
一目見たとき、勘違いかと思った。
だけど全てがそのままだ。そしてどこかで会っているような気さえした。

そうだ、おじいちゃんが亡くなって、聖なる木であの実を食べた時、あの子と会っているんだ。
なんで忘れていたのだろう。

聖なる木のところへ向かう。
自分がどうするべきか、自分がどうしたいのか、不思議とわかっている。

「鈴菜ちゃん、私を覚えていますか?」
秋風がすうっと通り過ぎる。
「幸来ちゃん、驚いた?もちろん、覚えてる、あなたに会いに来たのだから。」
「約束を果たしに来たの。鈴菜ちゃんの力になるって言ったもの。」
「あの時幸来ちゃんはたったの5歳だったね。本当にいいの?私は脅しに来たわけじゃないわ。もちろん強制もしない。むしろできることならば私は消えたいくらいなの。」
あの時は大人に見えた彼女だが、目の前の彼女は娘と同じくらいの少女だ。
三十年経って、鈴菜ちゃんが目の前にいる。

「鈴菜ちゃんは消えちゃダメだよ、この葡萄畑を守ってもらわないと。私も鈴菜ちゃんのために生まれてきた。おじいちゃんが私に託したものは鈴菜ちゃんだもの。」

「それじゃあ、私は幸来ちゃんのその意思をいただくわ。」

あの葡萄の実を見つけた時、そこに鈴菜ちゃんはいた。泣きながら、ごめんなさいごめんなさいと。私は葡萄の精がいると思った。

そのひとは橘鈴菜と言った。

ああ、この人を私は守らなきゃいけない、と幼い私は思った。
鈴菜ちゃんがまた私のところへ来てくれた。
今がその時なんだ。
鈴菜ちゃんをそっと抱きしめる。

「鈴菜ちゃん、ありがとう、ありがとうね。これからもこのうちをよろしく。杏果をよろしく。杏果は長生きして欲しいの、大丈夫だよね?」

鈴菜ちゃんはうん、うん、とずっと頷いている。
「今が百年目なの。しばらくは大丈夫。ごめんなさい幸来ちゃん。あなたに背負わせてしまって。」
「そんなふうに思わないで。私は犠牲じゃないよ。これが私の望みだから。その先を守ってね。杏果を、守ってね。」

「わかってる、わかってる。ありがとう。」
首筋から冷たい空気が抜ける。

私、生まれ変わったら葡萄になりたい。

この葡萄畑は私にとって檻であり、家であり、やっぱり帰ってきたいところなんだ。

つづく

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