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「一汁一菜でよいという提案」 感想

ここ最近プライベートがゴタついており、書くことから少々気持ちが遠ざかっておりました。
モヤモヤする出来事があった時、詳細に思い出しては負の感情を再燃させてしまうのが自分の悪いところです (^^;)
そういう時は何も書かず、料理に集中していると比較的忘れていることができます (^^)
再三のレシピ確認を要するような、必死になれるメニューが良いですね(笑)
料理好きというほどではありませんが、食材に触れていると嫌な気持ちにはなりません。
このカレイ、砂底を這うようにして生きていたのだろうな。
小さなおちょぼ口で、小魚やエビや砂中の虫を食べていた。目は二つとも右側に寄っていて、実に味のある面白い顔をしている、とか。
それなのに、ふわっとして消化に良い、実に繊細な身をしているんだな、とか。
扇のように全身をうねらせ、楽しく生きていたんだろうに。成長が遅くて寿命が長いというから、あと数十年も生きられたかもしれないのに。私に食べられてごめんね、とか。
色々なことを、考えます。
最近傾倒した土井善晴氏の著書を読むと、「人間の体はこれまで食べてきたものによって構成されている。つまりは、あなたは畑の土であり、あるいは海である」(意訳)。と論理的な圧縮と跳躍をもって書かれています。
あの可愛らしいカレイは、私の血肉の一部になったのでしょう。
おそらくはそういうことなのだろうな、と静かに納得するのでした。
食事はあまりに日常のことですから、惰性で三食済ませてしまうこともあります。
しかし、ずっと適当なことをしていると居心地が悪いもので、なにか罪悪感に近いものが忍び寄ってくるのでした。
その一端がよく現れているように感じるのが、先述の土井善晴氏に対する読者の反応です。
土井善晴氏は、最低限の料理として一汁一菜(具沢山の汁物はおかずを兼ねる)を提唱しました。
多忙な読者は大いに救われ、食に対する数多の縛りからの開放感を味わったようです。
自分はといえば、一汁一菜的なお弁当生活を長く続けており、土井善晴氏の提案に大いに共感を覚えたのでした。
私の以前のお弁当は、おにぎり二つでした。
ところが健康診断で糖質過多を指摘され、野菜やたんぱく質を含めたバランスの良いお弁当にするよう指導されたのです。
それがなかなか難しい。
熱いご飯を詰めたら、きちんと冷まさなければなりません。ご飯が冷めたのを確認してから、お弁当箱の半分近くを彩り良くおかずで満たすのはかなりの苦痛でした。
消化に悪い冷めたご飯のお弁当で、胃の調子が悪くなったのを機に、ランチジャーに切り替えました。
お父さんの現場食というイメージが強い保温弁当箱ですが、近年は女性や子供向けに容量の小さいものが販売されています。
スープ容器付きの弁当箱を選び、具沢山の汁物を熱い状態で入れます。
ご飯も熱いまま入れることができ、時短になります。
ご飯とおかずが別容器で、境界を接することがないのも衛生的です。
小さめのおかず入れはオマケのようなモノと考え、作りおきの漬物や炒めもの、自作の冷凍食品を凍ったまま入れています。
昼時にはちょうど良く解凍され、保冷剤の役目も果たつつ腐敗防止になるのです。
手抜きと手作りの折衷案です。これ以上楽な案は思いつかず、気がつけば長いこと続けています。
「おかず入れはオマケ」
この呪文を唱えるから、続けられたのだと思います。
土井善晴氏も同様に、「余裕のある時はおかずを作りましょう」と提案されています。
なにも、毎日ごちそうを食べる必要はないのだと。
エンタメ化した食の情報が洪水のように押し寄せる今日において、失われたハレとケの境界線を引き直してくれた。
これが、土井善晴氏の大きな功績だと思います。

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