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さよなら、星野鉄郎。

星野鉄郎に、なりたかった。
永遠の命をもつ機械の体をタダでくれるという星へ、謎めいた美女と旅をしたかった。
※若い方はご存じないかもしれないので、解説を。星野鉄郎は松本零士氏のSF漫画「|銀河鉄道999≪ぎんがてつどうスリーナイン≫」の主人公だ。何度もアニメ化され、人気を博した。

まず、タダというのがいい。
当時の私は子供で、お金などなかった。
「銀河鉄道999」のテレビアニメは地上波で放映されていたので、どうにか見ることができたのだ。当時の私はアニメに原作があることも、松本零士氏の漫画が基になっていることも知らなかった。
両親が漫画やアニメを「くだらない」という理由で禁止していたので、見ることをほとんど許されなかったのだ。
当時の自分が、どうやって親を説得したのかわからない。とにかく「銀河鉄道999」だけは、石にかじりついてでも見ていたのである。
幼くして、かなりのオタク気質である。しかも怠け者で、ラクをしてオイシイ目にあいたかった。
しかし、タダでもらえるなんてうまい話には、裏があるに決まっている。
果たして鉄郎の旅は、難題続きだった。ミステリアスなメーテルの言動を含め、様々な謎の解明が必要であった。
しかも、星野鉄郎になるためには、何やら条件があるらしい。
メーテルが銀河鉄道の無期限パスをくれるのは、勇敢で心やさしい子供だけなのだ。
私は女だが、立派な戦士になれるんだろうか。
私の父は、男の子の誕生を強く望んでいた。
「こいつが男だったら」などというセリフを、何度も聞かされた。
期待と失望の狭間で育った私は、今日に至るまで自分の中の女性性をうまく肯定できずにいる。
幼い私のルーツになったのは、「さよなら銀河鉄道999」の劇場版アニメ――正確にはそのノベライズである。
表紙だけを頼りに、ノベライズ作品を手に取った。劇場版アニメというものがあることも知らなかった私は、テレビアニメの続きだと思いこんでいたのである。
何かが違うと首を傾げながらも魅了され、一気に読んだ。ふたたび原作を探し求め、またもや間違って手に取った宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が、さらに私を方向づけた。
ものを書くという行為が「永遠の命」と深く結びつき、分かちがたいものになったのである。
自分が永遠の命を持つ代わりに、書いたものが長く残ることを願うようになった。
長らく未視聴だったアニメを見て、その確信はさらに強まった。
拙文では「さよなら銀河鉄道999」の象徴するものを分析しつつ、自分の生育歴を重ね合わせて考察した。


※この文章は、「さよなら銀河鉄道999」の視聴を契機に書かれたものです。
しかし、純粋な作品レビューではありません。
ある種のファンレターでありながら、個人の虐待経験をさかのぼり分析を重ねた、異形のレビューとなっております。
極力冷静に書くよう心を砕きました。しかし、フラッシュバックの恐れのある方にはお勧めいたしません。
また、興味のない方や耐性のない方にも、お勧めできない内容となっております(単に、おもしろくもないだろうと思うのですが (;^ω^)
以上の点をご了承のうえ、お進みくださいませ。



背景
主人公である星野鉄郎は、十五歳の少年である。レジスタンスの一員として、機械帝国と激しい戦闘をくり広げる。
そんな中、メーテルの声でメッセージが届けられる。鉄郎は仲間に助けられ、見かけはレトロだが心臓部は最新式の宇宙列車999に乗りこみ、地球を後にする。

まず、キャラクターを要素別に整理してみよう。

星野鉄郎
・主人公
・メーテルからタダで銀河鉄道のパスをもらえた特別な存在
・十三歳にして機械母星を滅ぼした「英雄」
・なのに機械化人は滅びず、人間と泥沼抗争
・機械文明への憧れは醒め、幻滅から憎しみに

老パルチザンと仲間たち=良い父親像
・鉄郎を「せがれ(息子)よ」と何度も呼ぶ
・鉄郎の旅立ちに希望を託して死ぬ
・生身の人間のあたたかさを象徴

黒騎士ファウスト=悪い父親像
・プロメシュームの騎士
・父であることは鉄郎には明かされない
・機械化人の有位性を「機械的に」語る
・鉄郎に殺される気だった?

鉄郎の母=良い母親像

メーテル≠鉄郎にとっての良い母親像→母と対立する娘

女王プロメシューム=悪い母親像
・母星ラーメタルを追われ、小さな石ころの星アンドロメダへ移住
・一代で機械帝国を築いた女傑

ミャウダー=鉄郎の半身、魂の兄弟
ラーメタル星で怪我をした鉄郎を助け、友誼を結んだレジスタンスの少年
・父母を機械化人に殺された
・父の形見の品を持つ
以上の二点が鉄郎と重なるため、もうひとりの鉄郎と位置づけられる

話の構造
生身の人間← →機械化人
限りある命← →永遠の命
熱血← →冷血
善← →悪

シンプルな対立構造に集約できる

本作の特徴は二点ある。
一つは、落ち着いた大人に見えていたメーテルの抱える問題が明らかになることである。
美貌と才智を兼ね備えた彼女も、完璧な人間ではなかった。母プロメシュームとの関係に悩み苦しむ、一個の人間であった。

キーワード
・支配的な母
・双生児的母子関係
・娘を自らのコピーとみなし、自由意志と人格は認めない。
・娘を新女王に即位させる

テレビアニメ版・十歳の鉄郎は、庇護される立場である。メーテルに、母とも姉ともつかぬ憧憬を抱いていた。子供は、悩めるメーテルという視点を持ち得ない。
劇場版アニメ第二作「さよなら銀河鉄道999」は、十五歳に成長した鉄郎の視点で描かれる物語である。鉄郎は、単に庇護される存在ではない。親と対立する闘争において、メーテルと対等であり同志であった。
劇場版アニメ第一作において、鉄郎は機械母星とプロメシュームを滅ぼした。しかしそれは肉体のみを破壊したに過ぎず、機械化人は依然として生身の人間を迫害し続けていた。
悪の枢軸たるプロメシュームの心が、大アンドロイドにおいて生き続けていたからである。
従って、劇場版アニメで二度目になる今回の旅は、精神世界への旅ともいえよう。
もう一つの特徴は、死んだとされていた鉄郎の父が現れることである。
黒騎士ファウストの正体は、ハーロックの古い友人であることが示されるものの、鉄郎には明かされない。

本作において明かされた謎が、もう一つある。
それは、機械帝国の根幹に関わる問題である。
永遠の命の秘密は、女王プロメシュームが一手に掌握していた。
新女王に即位したメーテルは、鉄郎たちに機械化人の食糧であるエネルギーカプセル工場を見せる。
そこでは、自由と意思を奪われた人間が家畜のように運ばれ、命を抜きとり廃棄されていた。
エネルギーカプセルの中身は、人間の命だったのである。
機械化人は供給されるカプセルを無造作に飲み下し、罪悪感など覚えない。
今日の私たちが屠殺され、部位別に分けて加工された肉を食べても、生き物を殺したとは感じないように。
機械帝国中枢にあるこの工場は、機械化人に殺人を実感させないための一大システムであった。


永遠の命の意味の崩壊

これまでプロメシュームが人々を幻惑してきた「永遠の命」とは、一体何だったのか。
それは、無限に生きられる魔法ではなかった。
機械の体が持つ「永遠の命」は、単なるレトリックに過ぎなかった。
彼らはヴァンパイアのように、奪った命を飲みこんでいた。限りある命が衰える前に、他者のそれを継ぎ足していたに過ぎなかったのである。
鉄郎は怒り悲しみ、工場を破壊する。
メーテルも自らの手で母プロメシュームを滅ぼし、二人は機械帝国の終焉を見届ける。
その後鉄郎は黒騎士ファウストと対決し、父とも知らぬまま倒す。
つまり本作は、娘が母を、息子が父を殺す通過儀礼の成長譚と総括することができる。

これらの要素を、私の生育歴と重ねてみる。

父=プロメシューム
・一流企業を飛び出し、町外れに工場と家を建てる≒一代でうち建てた帝国)
・娘の私に後継ぎとなることを要求
・跡継ぎを拒否→公務員にさせようと腐心
・私が公務員を退職→「公務員を全うできないなら、死んだほうがマシ」と発言
≒プロメシュームの「鉄郎は機械帝国の敵。生かしておいても意味はない。殺しなさい」(大意)に類似

母=黒騎士ファウスト
・機械的に父に同意するのみ
・従属的な役割

私=親のコピーとしてのメーテル
・跡を継ぐことを押し付けられる

私という娘の価値の変遷
従順な間はメーテル(後継ぎ)→反抗するとレジスタンスの鉄郎(機械帝国の敵、邪魔者)→エネルギーカプセルの単なる原料

私=機械化人の食糧
・終着駅は公務員=エネルギーカプセル工場
・自由意思の剥奪、レールに乗せられる=幽霊列車で運ばれる人間たち

私が鬱病の症状で公務員を辞めたとき、父は烈火のごとく怒鳴り散らした。
なぜあれほどの怒りを見せたのか、今ならよくわかる。
なぜ、公務員という肩書きに拘ったのかも。
それは、安定した収入が得られるからではないか。私の収入を自分のものにすれば、景気に翻弄される工場の不振を穴埋めできると考えたのだろう。
そのため、あてが外れると我が事のように怒ったのである。
単線のルートでは心もとないと思ったのか、父は複線を敷いていた。私が公務員ルートから外れた場合、第二の軌道を歩かせる計画があった。
その名を永久就職という。つまりは、結婚である。
給料の安い私一人にタカり続けるより、ずっと効率が良い。配偶者を獲物にできたら、エネルギーヴァンパイアにとって万々歳である。
今の自分ならば父に言うことができるだろう。
一度籍を入れれば一生働かずに暮らせるという都合のいいもくろみは、幻覚を越えた妄想であると。
今日においては、何度も結婚と離婚をくり返すことは珍しくない。結婚生活とは、両名の不断の努力と妥協によって営まれる共同生活であるのだから。
私は父の要求を退け、反抗し続けた。
自分以外に犠牲者を出すのは真っ平だ、という思いもあった。
男児の失敗作として出生した私は、あらゆる角度から自己の女性性を否定され続けた。
女児的ふるまいは無視され、後継ぎの男児にふさわしい言動のみが推奨された。物心ついたときには既に、自分が何者であるかわからなくなっていた。
器としての肉体は確かに女であるが、心は女性にも男性にもなりきれないキメラだった。
同性婚を除き、結婚とは性的自認が男女である両名が行うものである。私のようなキメラが、結婚して女のフリができるのか?
女性としてふるまうことは、私にとって社会に受け入れられるための仮面であり、苦痛な演技に過ぎなかった。そんなことを、共に寝起きする配偶者の前で続けられるのか。
――答えは、Noだ。


さらに、結婚を阻害するもう一つの問題があった。
私は幼児期に、性的虐待を受けていたのだ。当時は自分の身に何が起きたかわからず、記憶を抹消することで生き延びた。
思春期に記憶を取り戻し、事実を正確に把握したとき――世界が色を変えた。
女ではない――女であってはならない自分が、他者から勝手に女とみなされ、肉体に侵入される。
その衝撃は消えることなく、今も私を揺さぶり続けている。女性を主人公にした話を書くことがむずかしいという障壁の一因になっている。
「結婚しろ」と要求されるたび、凍った心にヒビが入る。全身が粉々に砕かれるような苦痛を、機械化人めいた両親は理解しなかった。
「結婚もしない女が、独りで生きていけるはずがない」
それは父の口癖であり、私を永久就職させるための脅し文句だったのだろう。
父の脅迫への反証として、私は家庭を持たずに独りで働き、生活を維持した。レジスタンスとして闘っているつもりでいたが、心は温度を失い死んでいった。
話が支線に逸れたので、本線に立ち返って整理しよう。


永遠の命=タダで手に入る、継続的な安定収入

私の両親の価値観は、上記のようなものだったといえるだろう。
アルコールに依存し、自らうち建てたはずの帝国で働くことさえしなくなっていった父には、どうしても必要だったのだ。
口を開けて飲みこむだけで命が得られる、エネルギーカプセルが。
それは、我が子の心を惨殺してでも手に入れたいものであった。
興味深いことに、この時期父は新規事業を起こしている。
多くの機械を並べた、自らの帝国が立ち行かなくなったのかもしれない。
家畜としては特殊な、ある動物を飼い始めた。
文字通り生き物の命を奪い、自らの命を繋いだのである。
畜産業に携わる方たちが、需要に応じて家畜を出荷する日常とは異なる色が、そこには塗りたくられていた。
私が殺さないでと懇願した個体を、彼らは順番に殺していった。肉にする価値がなく、出荷しても収入が得られない個体までもだ。
何の肉か知らせず食べさせた後、私がつけたその個体の名前を囁き、殺したことをわざわざ告げた。
彼らが一時的に狂奔した新事業は、娯楽を兼ねて命と感情の搾取を愉しんでいたと推察される。
このような残忍さは、生業として経営を行なう場合不必要であるばかりか、害悪である。
偏った感情は、事業を経営する現実感覚を狂わせるからだ。案の定、彼らの事業は短期間に頓挫した。
私は、彼らの機械帝国を飛び出した。
レジスタンスに疲れ、勇敢さもやさしさも持てないまま逃げ出した。

私と家畜を失った間、プロメシュームと黒騎士は何からエネルギーを得ていたのだろう。
彼らは、祖母と妹から金銭を巻きあげていた。
もはや他人の生き血を吸うことでしか、生活を存続し得ない精神構造だったようである。
私は後に、母宛に一通の手紙を出すことにした。
一つ目は、彼らがこれまでないことにしてきた、虐待の事実を刻明に記した。
二つ目は、彼らのエネルギーヴァンパイアとしての素顔である。他人からタダで金銭を搾取し続ける浅ましい姿を、ありのままに書き連ねた。
劇場アニメ一作目で、メーテルは父ドクター・バンの魂の入ったペンダントをプロメシュームめがけて投げこんだ。それは、ドクター・バンがプロメシュームの素顔を知る人物だったからだろう。
ファウストの手にしたロケットペンダントには、幼い鉄郎と母の写真が入っていた。ミャウダーのオルゴール時計は、父の形見である。
果たして、私の投げこんだ爆弾は効くのだろうか。
これまで何を言っても耳を貸さず、機械的な主張を繰り返してきた人々である。
半年ほどは、何の音沙汰もなかった。
公務員を辞めた私は、父に罵倒されたある会社に勤めていた。
なぜ罵倒されたのかは、わからない。おそらく、父の中で公務員以外は、すべて「悪」だったのだろう。
その非論理性において、カルト宗教をも凌ぐ偏狭さを見せつける人間なのだ。残念なことだが、真実である。
私は自分に良くしてくれる人を、この父親に関わらせようとは金輪際思わない。一瞬の躊躇もなく、私の親友に殴りかかった事実を、この目は忘れることができない。
どんなに猫なで声を出されても、答えは同じだ。
笑顔の裏に固めた拳を用意している人たちを、私は家族とは呼ばない。たとえ、血族であろうとも。

ある日、会社に私個人に宛てた郵便物が届いた。
珍しいことである。年賀状をやりとりする間柄なら、自宅に届くはずだ。
ざわつく胸を抑え、封筒を裏返した。
やはりというべきか、母の名前があった。機械帝国と交渉を断った私は、自分の身を守るために住所を知らせていなかったのである。
そこには私ヘの謝罪と共に、あることが書かれていた。
彼らは虐待の根城であった工場と家を他人に貸し、離れた町へ引っ越したという。父自慢の城は、主のいないもぬけの殻だったのだ。小さな機械帝国は、崩壊したのである。


快哉を叫びたい気持ちが、しばらくの間私を支配した。そのうちに、虚しさと悲しみが押し寄せてきた。
私は、帰ることのできる実家を失ったのだ。
盆にも正月にも、家族と食卓を囲むことは二度とない。私は彼らを、殺したのだから(あくまで精神的にだが)。
このような生育歴ゆえ、自分の家庭をもつという選択肢が、私にはなかった。
さびしくない、といえば嘘になるだろう。
しかし一方では、奇妙な開放感も味わっている。
私には、楽しく食卓を囲んだ記憶がない。ものを食べる場は父の説教の舞台であり、言葉の拳骨で打ち据えられていた。そんな実家なら、ないほうが良い。
私は、家庭を失ったわけではない。それははじめから、得られないものであった。
私が失ったのは、家族という名の牢獄である。
レールの上を、家畜よろしく運ばれていた。
エネルギーカプセルの原料として、搾取され続ける予定の人生であった。


親殺しの通過儀礼を終えた私の手の中には、乾いた血の痕と自由がある。枯死した機械化人の屍を踏みしめ、どこへでも行けるのだ。

永遠の命を求めるための、旅をしよう。
銀河鉄道のパスがタダでは手に入らないことを、今の私は知っている。
ラクをしてオイシイ目にあおうとしたら、エネルギーヴァンパイアになるしかない。
誰かの生き血を貪って、手柄を奪って。ギラギラと標的を探し、あさましく生きていくのか。
誰かを家畜に仕立てるために、卑しい言葉を連ねるのか。
そんな人生は、もうイヤだ。
アニメの冒頭で、へたりこむ鉄郎に老パルチザンが言葉をかける。
「生きたかったら、命ある限り歩き続けろ。生きたかったら、命ある限り闘い続けろ」
泥くさい熱さが、鉄郎を再び立ちあがらせたように。
プロメシューム様の奴隷になりたくなかったら、自分の足で歩け、歩け。
空っぽの頭を使って、死ぬほど悩め、考えろ。
みっともなく転んでも、石を掴んで起きあがれ。
唇を噛みしめて、恥辱に耐えろ。
どれだけ失敗しても、死にやしない。
亀のようにでも一歩一歩進むしかないことを、私は遅まきに知ったのだ。


自分の書いたものが、長く生きのびることを切に願う。
誰かの中に根を張って、生き続けてくれるという希望を、根強く持ち続けている。
そのためなら、どんな労苦も厭わないと。本気で闘う者にしか、創作の女神は微笑まない。
作中のキャラクターは、生きている人間のように息づいてほしい。
悩み苦しみ、愛に歓喜して、生身の人間と少しも変わらぬ人生を歩いてほしい。
束の間でも誰かの心をあたため、できれば長く愛されてほしい。
だって彼らは、生身の人間よりずっと長く生き続けることができるのだから。
それが、星野鉄郎になれなかった私の望みである。


終わりに

ここまで、劇場版アニメ「さよなら銀河鉄道999」と重ね、私の生育歴を振り返ってきた。
書きながら感じたことを記し、拙文を結びたいと思う。
自分にとって節目となる出来事を重ねると、多くの点で一致を見た。まずはそのことに驚嘆し、記憶の地層を掘り下げていった。
鉄郎とメーテル対プロメシュームとファウスト。そしてレジスタンス対機械帝国という対立構造を通じて過去の出来事を分析することで、真実の一端が鮮明に浮き彫りになった。
これまで解けなかった謎が、一気に腑に落ちたのである。
過去の私を自分自身として捉えることは、得策ではなかった。視点が近過ぎ、事実関係を客観的に捉えにくくなるからだろう。
両親の不可解な言動は、私にとって長年に渡る宿敵であり、課題であった。
今は喉にひっかかっていた、大きな魚の骨がとれた気分である。
私の身に起きたことは、あくまで個人的な事件である。
幼い私を夢中にさせた「銀河鉄道999」を、両親は知る由もない。文字というものをほとんどを読まず、マンガやアニメをすすんで見たことのない人たちである。
私自身も、「さよなら銀河鉄道999」のノベライズ作品を擦り切れるほど読み返したのは子供の頃である。今その本は手元になく、劇場版アニメを見ても、大まかにしか記憶していなかった。
にもかかわらず、個人の生育歴とスリーナインの世界観が一致したのはなぜだろう。
これは、本作品の持つ力が成せる業であろう。
この物語は、精神分析的なツールとなりうるほどに、寓話として洗練されているのだ。
一つに、キャラクターの対比が端的でわかりやすい。
二つには、親殺しの通過儀礼というテーマがキャラクターという象徴を通し、見事に集約されているからである。
この作品を鑑賞する人にとって、新しい視座を獲得する切り口となるかもしれない。
特に、親子関係に悩める人にとっては有効であろう。閉塞的な人間関係や、心理的からくりの謎を解明する上で、一筋の光明となってくれるかもしれない。
「さよなら銀河鉄道999」劇場版アニメは、稀に見る大傑作である。
大淵源たる、松本零士氏の偉業に。
そしてアニメ作品を創り上げたスタッフの熱意と働きにも感謝を捧げ、結びの言葉に代えたい。
時を越えても色褪せることのない、不朽の作品を生みだしてくださったことに、心からお礼を申し上げます。
ほんとうに、ありがとうございました。


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