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人権とはについての「友達への返信」

最近友達とhuman rightsについて話す機会があった。
ところが、友達は日本人でない。
そして日本語も喋れない….
英語で喋ろうとなるのだがとうの私の英語は中学生で止まっている。
そんなわけで今回の文は電話の後にメッセージで送ったものだ。
最近全くnoteに記事を投稿していなかったので、記録がてらここに書き残しておきたい。



僕も少し考えたのですが集団において人権は
個人の思想や人生観の表現が迫られる事態を避けるものであるのではないかと思います。

以下長くなりますが理由になります。

僕は人権は二つの要素で構成されていると思います。
一つ目は基礎の基礎(かっこいい名前が思い浮かばなかったのですが)
これは僕がここに存在していていい理由のようなものだと僕は捉えています。
ここに存在していい理由なのですが、今のところ僕は答えを得れていません。
しかし一つの仮説として僕がここに存在していることのできる理由は僕が自分自身でコントロールできな仕組みの中に含まれているという受動的な状態そのものであると思っています。
例えば思考や体は常に動きますが、自分という存在は常にその動きの中で存在し続けます。
(もしくは常に変わり続けて存在などはないのかもしれません)
しかし自分の思考の前を常に走っているこの現象は自身が存在するために必要不可欠なものであり
自身がその存在を認識している間においては”自身”にとってコントロールの外にありそれゆえに完全性を確保していると思います。
僕はこの考え全てを含んでいる存在という概念がいわゆる人が自信と呼ぶものの基礎であると考えています。
そしてこれは人権の一つの面を担う考えであるとも同時に考えています。
例えば誰かが
「貴方がそこにいていい権利があるのですか?」
そう聞かれた時に
「もちろん、なぜなら私の前にはコーヒーカップがあるから」
と答えることができるのです。
なぜなら私はコーヒーカップ以上に素晴らしい存在ではないかもしれませんが
自分という存在がコーヒカップ以下でもなく、存在という面において等しいことであると思い込み
またその考えを否定することは自分の思考を自身が追い越すことがないと仮定する上で、
できないからです。
『Human rights SHOULD be universal as they cover natural human tendencies that can be observed)』
”友達の名前”が言っていたこの文は的を言っていると思います

**
だからこそ存在として認められているコーヒーは凄いのです。
コーヒーが存在しない場合は僕も存在することはできません。
コーヒーは私の人生そのものだといってもいいでしょう。

僕はこの考えを気に入ってはいるのですが
同時にいわゆる自身の基礎ではありますが、自身そのものにはなり得ないものであるかもしれないと考えています。
何をするかは関係、なく常に自身の存在を否定できないのは悲しい。

人権を構成していると思う二つ目の要素は
今回の主題に近い気がします。
一つ目の要素が人権を踏み躙るという行為は実は不可能であるという考えの基礎を固めるものであったのに対し、より現実に近いです。
確固たる人権(の基礎)を持った人が集まりある集団がある集団を弾圧し始めた時、そこには何があるかという問題です。
集団の行動は個人の行動の集まりです
人はそれぞれの目標を持っており
その目標に向かい、今できることをやっています。
目標となり得るものは何でしょうか
僕は(この回答はつまらないのですが)生きることだと思っています。
なぜなら人間の行動を作り出す基礎的な要求は、完璧を求めるこだと個人的に考えているからです。
完璧とは具体的な目標ではなくぼんやりとした概念です。
なぜなら対象Aがある際”完璧”はその対象A以外の存在全てのものに存在することのできる可能性を持っているから。
つまり特別な条件を必要とせず、
AがあるならA以外もあるかもしれない…
そう考えることにより
自身の存在している、場所や状態は不動ではなく、選択肢があるかもしれないという確率の中に存在していることになります。
そしてこの完璧を求める考えを構成している一番の基礎は時間的な概念です。
なぜなら可能性は自身の命が続く上で構成される概念ではないかと思うから。
自信の命が保障されない状況になると私達は可能性の幅を狭め
最終的には自身の命の存続にのみ自身の未来が掛かっているという状態に直面するのではないのでしょうか
(ここは抽象的すぎて、矛盾がありそうです、申し訳ない)
T軸に存在するものが命であるなら、それが目標の基礎となっている呼べるのではないのかと思っています。
この意図せずにも生まれてくる完璧さを追い求める行動と
その行動に幅を作る時間
そして時間という概念を支えている命
これが人権を考える上での外見になるのではないかなと思っています。
行動Aをすることの可能性だけでなく
行動Aを実際に達成できる時間も人権と呼べるのではないのでしょうか。
では人権とは
人生の長さ*行動
この2つに変数を持っているものなのでしょか..。
僕はこれはポイントを持っていると思いますが
同時に少し物足りない気もします。
なぜなら現実の社会においては人生の長さと瞬間瞬間の行動以外に生まれ持った特性があることが一般的だからです。
つまり人権は
生まれ持った特性人生の長さ行動
の三つに変数を持っているのではと考えています。
この生まれ持った特性はある意味一番自由度が高いものなのではないのでしょうか。
なぜなら生まれ持った体は自身の管理外の存在のためです。
例えばある人は魚として生まれ、ある人は鳥として生まれたとします。
この時、魚が空を飛べないのは当人の選択ではありません
また同様に、鳥が水のなかで生きていけないのも当人が意図したものではない。

この時、鳥が魚に対し、合理的な批判をすることは(多分)できません。
なぜなら、鳥が魚を批判する際に、魚と鳥自身の状態を差別化する要素は存在への否定の理由とはなり得ないからです。
また魚についても同じです。
しかし人権において基本的に焦点が当てられているのは常に行動です。
これは多分人が意図的に働きかけを起こす時に、行動以外の要素に関与ができないから。

例えば生まれ持った特性について書きましたが
その特性は、行動にる結果によって変化、また補われることが一般的です。
例えば、スマホなど、人間の物理的な限界を超えた手段や
義足やメガネなど。
また人生の長さへの関与は行動なくしては行われません。
行動なくして何かを行うことは、無理(なはずです)。
行動には流れがあります。
上で述べたように
今の状態から、今の状態ではない状態への変化が行動です。
そして多分、人権について最も議論される点なのではないのでしょうか。
人の行動に方向性や制限を設けることは許されることなのだろうか…などなど。
人の行動が重なる大きな理由は、目的地が重なることではないのでしょうか。
僕は曖昧な状態なのも実は好きなのですが
問題の可決さとはその曖昧さに直に乗り込むことです。
では何が原因で人は曖昧さに白黒をつけないといけなくなるのでしょうか。
多分それは個人の思想や人生観を表現する必要に迫られた時でしょう。
なのですが僕は答えを見つけれませんでした…。

ただ一つ言えるのは
集団において人権は個人の思想や人生観の表現が迫られる事態を本質的には避けるものであるのではないかと思います。
しかし個人の思想や人生観全てが奪われたとしても、個人個人の存在の価値が本質的に失われることは時間を捻じ曲げたりしない限り、ないのではないかと重ねて思いました。


ここまでお読みいただきありがとうございます
感謝です!


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