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血道 第三部 苦しみの連鎖

令和四年 五月七日 遠野探偵事務所

 光里は樹音たちの指示通り、病院に退院の申し出と調整を依頼し、急転直下、退院させることとなった。
 依頼した翌日に姉を退院させることが出来たのは、丁度医療保護入院の期限が迫っていたからだった。解放病棟に移動にもなっていたし、退院後のことを考えなくてはいけない時期だったので、病院側は反対しなかった。
 姉は、退院するという光里の唐突な提案を、静かに受け入れた。
 その調整が終わったあと、光里は自分の家に帰ることもできないほどに疲労困憊で、探偵事務所のひとつ上階にある、遠野家のリビングで泥のように眠った。
 姉の退院も本当は迎えに行く予定だったが、樹音が光里の代わりに、従兄の慎夫婦と迎えに行ってくれることになった。あまりに消耗しているのが光里自身も分かっていたので、代理になってもらうことに異論はなかった。
 なので、光里は香菜子の手伝いに駆り出された。
 塩と酒、そして、新品の竹ぼうき、絹のはぎれ。それをもって、東向きの部屋に通された。
 その部屋は洋間で、アンティークらしい家具が並んでいた。すべての家具が時代がかり、不思議な匂いがした。教会や、神社などで感じる、祈りの匂いだ。
 ほとんど使わないが、客間なのだという。その客間を、香菜子の言う通り、塩を撒いて掃き、酒で絞った絹の端切れで拭いた。
 流石に、霊感やオカルトの知識が多いわけではない光里でも分かる。
 これは、部屋を清めているのだ。
 ──大山の足跡は、何かが這ったみたいだ
 いつかの飲み会で香菜子の放った言葉を、最近とみに思い出す。
 何が這ったのだろう、自分の足元には何があるのだろう。答えは出ないし、自分は見ることはできないが、いまとなれば、あまりにもおどろおどろしい。
 なぜあの時は気にも留めなかったのだろう、こんなにも暗示的な言葉なのに。
 香菜子は、家中の観葉植物に注連縄を巻いていた。部屋の四隅にある観葉植物には、鈴まで付いている。
 リーンと澄んだ高い音は、空間が浄化されるようで心地よい。
「……先輩、客間の掃除が終わりました」
「ん。ありがとう。こっちももうすぐ終わるよ」
「……観葉植物の全部に、注連縄を?」
「うん」
「すごい数ですね……」
 こうして改めて見ると、言葉通り家中に、大小さまざまな観葉植物が置かれている。光里は、熱帯植物園を連想した。あそこのように気温や湿度が高いわけではないが、緑の密度はそのくらい高い。
 その中を、香菜子がぱたぱたと動き回っていた。小動物を連想させる動きだ。
 何か物々しい準備が進んでいる。
 自分がその中心にいると思うと、身が竦んだ。
 香菜子が光里の表情に気づいて、息を吐いた。
「……怖い?」
「はい」
「そうだよね……いきなりこんなわけわかんないことに巻き込まれて。怖くないわけがないよね」
「でも、結局、ほかの人を巻き込みました」
 光里自身で抱えるには大きな問題になりすぎていたが、後ろめたさがあった。
 樹音は依頼という形をとってくれたものの、実質は妹の後輩の無理筋の願いを聞き入れたに過ぎない。そのくらい、光里だって分かっている。
「巻き込まなかったら、大山だって潰されるかもしれないんだから、頼りな。樹音くんは、少なくともあたしたちより大人だし、能力がある人だよ」
「樹音さんは、お祓いとかするんですか?」
「しないと思うけど、したの見たことないし」
 香菜子の返事に、光里は言葉に詰まった。
 ええと、どういうことだ?
 困惑する様子を見て、香菜子は肩をすくめた。
「樹音くん自体は、何も見えない。でも、ずっとあたしを助けてくれたし、『怪異』が何かを知りたがってる人だからね」
「どうしてですか?」
「……さぁ、どうしてでしょう。本人に聞いてみて」
 さらりと言われたが、聞くほどの関係値が光里と樹音の間にあるだろうか。
「なら、香菜子先輩がお祓いをするんですか?」
「うんにゃ、できないよ」
「できない?」
「でも、昔から見えてると、やっぱりこう、不便するわけよ。霊的なことでね、そういうことには対処できるようにしてきた……っていうのかな?」
「……対処……」
「雪国で生まれたら、教わらなくても、雪道歩けるじゃん、転びもしないで。そういうものだと思ってる」
「……そう、ですか」
 香菜子に祓うことはできないと言われて、光里は落胆を隠せなかった。肩を落とした光里の背中を、バシンッと香菜子が叩いた。
 彼女は申し訳なさそうに笑っている。
「おーちこまない、落ち込まない。あれはお姉さんに目をつけてる、隠せばいいの、ちゃんと、まずはちゃーんと隠さなきゃ」
「でも、精神病院でもダメだって……」
「準備ができる環境じゃないからね、病院なんて。きちんとここを清めて、入れないようにしておけば、あいつらは手出しができない」
「……本当に?」
「うん、心配かもしれないけど、体のことも心配らないよ、樹音くん。ああ見えて医者だから」
「え? 医者……?」
 思いっきり訝しんだ光里に、香菜子が声を上げて笑った。
「精神科医だから、今のお姉さんをみるのにも、いいと思うよ。あの人、あんなナリだけど、病院を辞める前まではいい医者だったし」
「そ、そうなんですね……」
 光里の持つ医者というイメージとは、程遠い。
 確かに、医者だってずっと白衣なわけはないし、私服も着るだろう。ただ、日本の男性社会人は、髪をあれほど明るく染めて伸ばすことは、アパレル職でもない限り許されない。
 樹音の乗っていた車も、マンションの家具も高価で、生活水準が高いことはわかっていた。その裏打ちは、医者だったからか。
 納得できたような、納得できないような、不思議な心地になった。
 とにもかくにも、遠野樹音という人間が、光里にとっては今まで出会ったことがないタイプの人間だということは間違いがなかった。

 同日、東京郊外、遠野病院。

 温かみのあるクリーム色の外壁に、ブラウンのサッシをはめた外観を見上げながら、樹音はぼんやりと自分がこの病院を去ってから経った数年が、実は決して短いものでなかったと実感していた。
 勤務医としてこの遠野病院にいたとき、この病院はよくある古びた病院だった。真四角で、黒く汚れた窓枠が等間隔に並んでいる。それが昨年リニューアルして、精神科病院としてのイメージを払しょくするかのように、明るい雰囲気になった。
 あの時見上げた病棟は、素っ気なかった。樹音が夜勤からの二十四時間勤務を終えて、しぱしぱする目で満月を見た時に、『そろそろ病院を辞めよう』と思ったのは、まだまだ駆け出しのころのことだ。
 今でも、時々、周囲からは辛抱が足りなかったと言われるが、樹音はそう言われたところで痛む心さえ持っていなかった。
 親も、兄ふたりも、全員医者だ。なんならこの遠野病院という大病院を、一族で戦前から運営している。家は長兄が継ぐことになっていたし、樹音は特別、医者にならなければいけないとプレッシャーをかけられたこともなかった。そういう環境だったので、最初に勤めたのも、辞めたのも、実家の病院だった。親も「まぁ、あんたは続かないと思っていたよ」とあっけらかんとしたもので、家庭内では止める人もおらず、また、樹音は「ひきとめられなくてよかったなぁ」とのんきに思ったものだ。
 期待をかけられることが、とても苦手だと、自覚がある。なので、今更、精神科医として患者に向き合うつもりは、あまりない。むしろ、全くない。
 樹音が医者になったのは、家系が医師家系で、自分の成績も医学部を狙うのに十分だったからだ。ただ、現場にいた数年間、彼は割と優れた医師ではあった。それはひとえに、鈍感でありながら、客観的であるという性格に帰依していると、自分では思っている。
 善人では、医者になれない。もちろん奉仕の心がなければ、あんな勤務スケジュールで働くことは無理だろうが、純粋で優しく共感力が高ければいい医者かと言えば、そうではない。
 医者とは無情であるべきだ。感情を持つと、心が壊れる。
 光里に代わって、実家──敷地の中に病院がある──に行くと、かつてのナースたちにどやされながら、退院の準備が終わった大山美国に引き合わされた。
 彼女は車椅子に乗って、何かに怯えたように周囲を見ていた。
「なにか、聞こえますか? それとも見える?」
 樹音はゆっくりと尋ねた。
「……這う音が」
「どんなものが這うんです?」
 ようやく、問いかけてきた相手が目の前にいることに気が付いたとでもいうように、大山美国は振り向いた。
 ──綺麗な子だな。
 追い詰められた人間だけが出せる、刹那の命のひかり──狂気とも言われる、そのひかり。
 それを垣間見た気がした。
「ずりすりと、とても遠いんですが、近づいてくる気がします」
 這う音が、近づいてくる。ずりずりと。
 ずりずり、ずりずり。
 何が這っているのだろう。
 樹音は微笑んだ、狂気に傾きかけている、目の前のやせ細った女に。
 夏の盛りだというのに、彼女は長袖のパーカーのチャックを首までしっかりしめ、手も指先しか見えていない。
 グレーのパーカーの前腕の部分に、線上の染みがあった。
 ──血だ。爪がはがれるまで、彼女は自分の腕をひっかいたのだ。爪は、ほとんどの指でガタガタになっていた。
 汗のひとつもかいていない大山美国の肌は、年齢に似合わないほどカサついていた。車椅子に収まる姿はまるで老婆のようだ。痩せた手の甲には、二十代らしい瑞々しさは微かに残っていたが、縦にたくさんの傷跡がある。
 完全な自傷行為だ。
 精神科領域にいると、自殺未遂という単語くらいでは動揺しない。日常的な単語だ。樹音の担当患者にはまだいなかったが──時間の問題ではあったと考えていたが──、担当患者が自殺してしまうことは最悪の結末ではあるものの、ないとは言えない。
 人は、死ぬ。
 いずれ、誰だってどうあがいても死ぬ。テロメアには限界があり、いずれ細胞は分裂を停止する。
 だが、自ら死のうとすることは、人間というものの行動原理からすると非常に無理のかかる仕事でもあった。動物とは、本能的に死を回避する。生存に固執して、生存するために行動する。飢饉や戦争で飢えた人間は、なんでも口にする。生きるために、強烈な飢えから逃れるために。
 そんな強固な執着を飛び越えることができる自殺というものは、大きなエラーで、大きな負荷が脳にはかかるはずだ。
 だが、死にたがっている人間にそんな理屈は通らない、最も恐ろしい生存を阻害する『なにか』に彼らは怯え、戦い、疲れ果てて『死へ逃れる』だけだ。
 そこに、『死』というものに、普段はあるべきはずの垣根がなくなる。生命というものの線引きが非常に曖昧になるのだ。
 自殺未遂と、自傷との感覚の違いを説明することは難しいが、樹音の中では少なくとも明確に言葉として区別していた。
 確かに、このままエスカレートしたのなら、大山美国は死ぬだろう。ただ、自分の指で皮膚をひっかいて自殺することは、不可能に近い。目をえぐればできるだろうが、彼女の顔には傷がない。
 どうやら、腕だけに自傷はとどまっているようだ。
 冷静に彼女を観察して、樹音は言葉を続けた。
「病院にきた時と今で、変わったことはありますか?」
「……変わったこと……」
 大山美国は、ぼんやりと返事をした。
 それから、少し考えるような間のあとに、口を開いた。
「音が」
「音? 這う音の他にですか?」
「はい、他の音と声がするんです……ずっと」
 声。樹音は瞬きした。
「今もします?」
「そうですね……」
「何を言っているか分かりますか?」
「いいえ……」
 樹音が光里から聞いた話にも、幻聴の訴えがあった。
 美国が何かを聞いているということは間違いないだろう。それが、現実か現実ではないかは別として。
 樹音の目を見ることはせず、じっとどこかを見上げていた美国は、乾いた唇をぺろりと舐めた。
 そして、右手が、無意識なのか、がりっと手首の傷に、ほとんどない爪を立てる。
「人の声です、前はもっとはっきり聞こえた気がするんですが、今は……遠くて……あとは、規則正しい音がします……」
「規則正しい音?」
「はい……木の音……でしょうか。何の音だろう……」
「梢が揺れるような音?」
「いえ……もっと、機械的な音で……規則正しく等間隔で聞こえてきます、お囃子みたいな……でも、なんだろう……」
 がり。
 じわりと、血の匂いがする。
「何の音でしょう……」
「這う音と、どちらが大きいですか?」
「……這う音は……一週間くらい前から聞こえてきて……近づいてきている気がします……ほかの音は遠くなったのに……どうしてでしょうか……」
 がりっ、がりがり。
 手首の傷から、上腕へ傷が上がる。ちらりと見た腕に、幾筋もの新しい傷がある。
 白い腕に走った、亀裂のようなもの。どうして亀裂を連想したのだろう、傷だ。今でも血を流している、痛々しい傷痕なのに。
 がり……がり……。
 ──自傷なんて言葉とも、自殺未遂なんて言葉とも、感覚的にも違う。
 今まで見てきた患者とは、何かが、違う。


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