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書くことないんですけど。

最近思ってるんだけど、書くことがない。とにかく書くことがない。毎日だれかに会ってるし、だれかのエピソードトークを聞いてるはず。

だけど、わざわざ書くまででもない。

もしもこの文章が書かれている場所が、私しか見ない紙の日記帳だとしたら、きっと、もっと、正直に、たくさん書ける気がする。

仕事のこと、家族のこと、子どものこと。

でもここは不特定多数の人様がいる場所だから、ちょっと気をつかって、自分が自分に貼ったラベルを意識して、「う〜ん、これなら美しいと思ってもらえるかなぁ」とうなりながら書いている。

たとえばニュースを見たって、それに対する意見はない気がする。東京都知事がどうなるか、旭川のいたましい事件について思うこと、そういう社会派なことは私には書けない。なぜ書けないかというと、意見を持っていないから、じゃあなぜ意見を持っていないかというと、それについて深く考えていないから。

だから最近は目にした光景について書くことが多い気がする。それが1番手っ取り早いとどこかのタイミングで気づいてしまった。



そういう自分をなぐさめるために、たとえば昨日みたものについて書いてみよう。


...



「外に放置された缶コーヒー」

道を歩いていると、マンションがあった。そのマンションの横の道端にまだ開けられていない缶コーヒーが3つ置いてある。周りにはだれもいない。こんなところになぜ? と思ってマンションを見上げると、足場が組んであった。どうやら外壁の塗装工事をしているらしい。そうか、職人さんたちがひと段落したころに缶コーヒーを開けて飲むためにおいてあるんだろうな。



「この本どれでも100円」
また道を歩いていると古びた本屋さんがあった。店の入口の前には小さな本棚が置かれていて、小説などの単行本、雑誌が並んでいる。棚の横には紙に「この本どれでも100円」と書かれている。棚にならんだ週刊誌の表紙をみつめると「大谷翔平が結婚」と書いてあって、ちょっと古いようだ。いったいこれをだれが買うのかなと思ったけれど、近くには小学校があって、もしかすると帰り道の小学生が買うのかもしれない。


「交通誘導するちびっこたち」

むこうの道路に目を向けると、小学生の男女4人組が歩いていた。歩道には駐車場があり、ホンダの青いフィットがまさにいまからそこから出ようとしている。小学生たちはその場に立ち止まり、車の運転手に対して「どうぞどうぞ!」と誘導している。でも青いフィットは動かなくて、小学生たちは結局、車の前をペコペコしながら横断していた。アンガールズのコントにそういうのがあったような気がするが、ちょっとちがうなと微笑む。


ゆがんだタイヤ」

建物の側面の外壁に、タイヤの歪んだ黒いママチャリが逆さまに立てかけてあった。そういやちいさなころは自分の自転車のタイヤの歪みが気になっていたことを思い出す。走ることには不自由しないけれど、タイヤが波打つように動いているのがなんだかイヤで、友だちはだれも私の自転車のゆがみを指摘しないけれど、自分だけはイヤだなと思っていた記憶が顔を出す。


...

こうして日常の景色に光をあてれば、

あ......「景色」に「光」をあてるか。
だから「光景」は「光景」と書くのかも。

日常の景色に少々の光を浴びせれば、こうやって書くことはたくさんあるような気がするのだけど、どうもこれには飽きている自分がいる。

「それがあなたのスタイルでしょう?」

そう言ってくれる方もいそうな気がして、それはそれでとてもありがたいのだけど、そういうラベルを貼られている自分がイヤになる。そのラベルを貼ってきたのは自分自身なのだから自業自得なんだけど。

自由に書いているつもりなのに、年月をかけて積み上げてきたものが、ヘドロのように身体にまとわりついて不自由だ。


はて、どうして最近は書くことがないのだろう。


おそらく、いまの私の日常は家庭と仕事の往復で、新たに会う人も仕事上での付き合いだから、なにか大長編のようなスペクタクルが起こるわけでもないし、起こったとしても書けないからかもしれない。



今日、久しぶりに札幌の地下街を歩いた。人がたくさんいた。あ、この街はこんなに人がいるんだった、だけどだれとも話したことないな、いまの私って、もしかすると、つまらない人間なんじゃないの。理由もなく思ったりする。


今日こうやって書いたように、見たもの感じたもの、考えていることを発散させる場所がない自分を想像するとゾッとする。

だけど、いまのところはここがあるから、2年前にnoteここで文章を書くことを選んだ自分をわしゃわしゃと褒めてあげたい。


おれ、ナイス(わしゃわしゃ)。


<あとがき>
気づいたらもう丸3ヶ月スタエフをやっていない自分がいます。特に理由はないのですが、1年以上ほぼ毎週やっていた音声配信をやらなくなると、こうもやらなくなるかということで、きっとnoteもやめてしまったら一生やらなくなるんだと思います。ずっとやってきたことをストップするとどんな心境の変化があるだろうか、と思ってスタエフはやっていないのですが、やっぱ音声のほうが楽しいんですよね。今日も最後までありがとうございました。

【関連】文章を書くということについて

【音声配信】そろそろ休止にも飽きてきた

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