他人と行くカラオケが好きじゃない理由。
カラオケにはもう何年もいっていない。
そして、これはとても痛い記事になると思う。
最後にいったのはたぶん、5年以上前、友人の結婚式の2次会で、仲のいい友人6人くらいでいったような気がする。
新郎新婦はさまざまな会場でおこなわれている2次会に顔を出していたようだが、夜の11時くらいに私たちのカラオケルームにやってきて、解散の朝の5時すぎまでみんな乱舞していた。「新郎新婦との関係性がかなり深いメンツだったのだ」と暗に言いたいのかもしれない。もう痛い。
さて、私はあまりカラオケが好きではない。
なぜなのかをここに言語化しておきたい。
カラオケが好きではない理由はなんだろう。
歌を唄うという行為自体はもちろん好きだが、自分が丹精込めて熱唱する姿を他人に見られるのがこそばゆい。私は原曲厨であるから、歌手が唄っているとおりに発声したいと思ってしまう。
しかし、楽曲というものは歌詞には明文化されていない「Oh」とか「Ah〜」みたいなところがあるわけで、それを原曲とそのまま同じに再現している様子を見られたりするのがイヤだ。あ、この人はちゃんと「Ah~」って唄っちゃうタイプね、と思われるのが恥ずかしいじゃないか。
ほかにも他人に見られるのがイヤな場面がある。
サビの高音帯にさしかかったときだ。
原曲厨は原曲のとおりに唄いたいという謎めいた矜持があるものだから、地声のままでは厳しいところでもなんとかして発声しようとする。
よく、本家の歌手が裏声もつかわずに腹式呼吸でしっかりと高音帯を出す「プロフェッショナルなサビ」がこの世界にあると思うが、もちろん私も裏声を使いたくない。しっかりと譜面通りに、かつビブラートやこぶしなども指示通り、つまりは原曲どおりに唄いたい。
なぜかって? 原曲厨だから。
だからカラオケでわざわざ唄うくらいだから、自分でも唄いやすい曲をチョイスする。この「唄いやすい曲を選んでいる」カンジも恥ずかしい。あと、いざ唄ったときに難しい高音を出したときの知らない人の「すごーい」みたいなのもイヤだ。
また、キーを下げる人も苦手だ。
なぜだと思う?
原曲厨だからだ。
原曲どおりじゃないのに、わざわざキーを下げてまで唄う人の気持ちは、理解をしてさしあげたいがどうも理解できない。たださえ本家の歌手ではない偽物が唄うのに、なぜさらにキーを下げてもっと偽物にするのか。
カラオケで何を唄うかのチョイスもめんどくさい。次の曲が画面に表示されるではないか。次の曲がわかる表示システムをカラオケ業界は変えてほしい。誰かが次の曲を予約したときに「島んちゅぬ宝」と表示されれば、また誰かが「あーいいねぇ!」と言う。それ自体はとても素敵だしいいんだけど、知らない人と一緒にいったときの「この人、こんな顔してこれ唄うんだ」と思われてる感。
つまり、それほど仲のよくない人たちとのカラオケが苦手なのだ。
自意識が高いのである。
だからこそ、私はカラオケには決まったメンツとしか行ったことがない。
メンバーは全員が全員、私と同じ原曲厨で、高音もきちんと腹式で発声、ビブラートやこぶしも遵守し、だれかが凄まじいクオリティで唄いあげたとしても「おぉ〜! すごーい!」と驚嘆せず「まぁ、それがいつも通りだよね」という顔をしている。
ハモリの場面があれば、だれかが下の音域を、また誰かは上の音域を。しっかりとリズムを全員で刻みながらも裸踊りをしたりはしない。赤の他人からみれば気に食わない連中。私がこういう連中をみかけたら、ハリセンで頭を叩きたくなるかもしれない。
私のカラオケチーム(チーマーなので)は全員が聴覚優位の人間たちだといえる。保育士の方ならわかるかと思うが、人間には情報処理のやり方に個体差がある。目で得た情報を処理するのが得意な「視覚優位」。もうひとつは耳から入ってきた情報処理を得意とする「聴覚優位」。
いつものカラオケメンツに、ごくまれに初めて来る人がいたこともあった。
それはだれかの彼女であるケースが多かったのだけど、こういうときの私たちの「さ、見せちゃいましょうか」感。
「どうです? 他のカラオケとは一線を画してますでしょ?」感。
これがなんやかんやで滲んでしまう様子に全員とまどったものだ。なんやかんや、やっぱり自意識過剰なのである。
もう、しばらくカラオケには行っていないけど、要するにこの記事は「私がいつも一緒にいくカラオケメンバーは、みんな歌がうまいんですよ」と暗に主張する痛い記事になっている気がする。
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